春の郊外
大町桂月

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)新宿《しんしゆく》

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(例)※[#二の字点、1−2−22]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ひま/\に
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桃花の散らぬ程にと、越ヶ谷さして、兩國橋より、東武線の鐵道に乘る。この線は、本所を過ぎ、龜戸より左折して、鐘ヶ淵、北千住、草加、越ヶ谷、粕壁、久喜、鷲の宮、羽生を經て、利根川に接する川俣にとゞまる。やがて川をわたり、館林を經て、足利に達する筈也。向島の櫻雲を、ちらと汽車の窓より、緑樹のひま/\に眺め、北千住を過ぎては、東北郊に特有なる菜の花を眺む。とぼし油の需要減ぜると共に、菜花の美觀も減じゆくは、惜むべし。『有明けのとぼす油は菜種ゆゑ蝶がこがれて逢ひに來る』、『むかし思へば深い中、死ぬる覺悟で來たわいな』など云へる、可憐なる有明節も、今は東京にすたるやう也。越ヶ谷にて下る。
 越ヶ谷の桃とて、人の見にゆくは、越ヶ谷在の大林の桃林也。その手前の大房にも、桃林あり、古梅園とて梅園もあり。越ヶ谷の本宿の東方にも、元荒川の左岸に桃林あり。こなたに麥畑あり。川を中にして、緑紅相映ず。
 停車場を出でて、十數町、奧州街道を北行し、一寸、左折すれば、大林の桃林に出でたり。小高き處に、小祠あり、數株の松あり、茶店あり。桃林は、之をかこみて、二三町四方にひろがる。人よりも低き木にして、案外に大なる花を帶ぶ。見渡す限り紅天地と言ひたけれど、實は、それほどの事は無し。小桃林の長くつゞくことは、中山、市川にゆづり、見渡しの晴れやかなるは、こゝが勝る。元荒川は近けれども、桃林それまでは及ばず。遊客は、ほんのぽつ/\あるのみ也。花下に席をしきて、團欒して酒飮むは、近邊の農夫にや。濁聲あげてうたひはやす。中に、一人起ちて跳れば、手や、袖や、桃の枝にふれて、紅雪はら/\と散る。
 露臺に腰かけて、休息す。平生ならば、一杯といふ處なれど、鮨を食ひ、茶をのみてすます。樂みまた其間に在り。十數年來の胃病、この春に至りて、殊に甚し。酒を一寸口にすれば、嘔吐を催して苦しく、煙草を口にするも、亦嘔吐を催す。たゞ、歩きて體をうごかせば、體も精神も、少しは苦痛を免るゝ心地す。『たゞ見れば何の苦もなき水鳥の足にひまなき我が思ひ哉』と咏じけむ、余の遊行するは、病人の病院に入る也。もとより酒の味は、口に解せず、たゞ、からだのみ解する身也。されど毎日晩酌をかゝざるに慣れて、一二合ぐつと飮み干して、體に微醉を求むるとは、われながら、未練なる男哉。酒に憂へを忘るゝは、小さき料簡也。一切酒を口にせずとは、これも小さき料簡也。飮みて酒の趣を得てもよけれど、進みては、飮まずして酒の趣を得るに至るべし。斗酒も辭せざるは男子の意氣地なるが、飮まざれば酒の趣を得ずとは、まだ悟れぬ人の事なりと、自から悟つたつもりなるも、酒に嘔吐を催すやうになりたるおかげと、思ひ切つては廣言も出來ず。茶店の棚にならべる正宗の瓶をながめて、腹の蟲がまだ納まり兼ぬるやう也。
 歩をかへし、李花の間を過ぎ、菜畑を過ぎ、麥畑を過ぎて、元荒川と街道とを隔つる堤上に立つ。大房の桃林の一部遙に見ゆ。ながめ廣やか也。桃の紅、李の白、菜花の黄、麥の緑、之に、一帶の雲が日に映じて紫となれるを合はせて、滿目、五色の天地と、ふと一ぷく吹かしたくなりたるも、おぞや、まだ悟れぬ凡夫の身也。
 越ヶ谷の停車場より馬車にのりて、野田に赴かむとするに、馬車今來しばかりにて、まだ時間がありさう也。久伊豆神社を訪ひて、路にて待ちあはさむとて、急ぐ路なれば、人力車を走らす。十餘町の程也。元荒川の左岸に、森林を爲す。鳥居より社前まで可成り長し。祠畔、小池にのぞみて、藤の老木あり。車夫に向ひて、粕壁にも、藤があるさうながと云へば、房の長さは、どちらも五六尺に及ぶ、されど、こなたには、池あるが勝れりといふ。これから、野田へ桃見に行かむとするなりと云へば、桃は越ヶ谷が第一也、野田はつまりませぬと打ち消す。我が住む里の自慢は、自然の人情なるべし。車夫の言ふに任せて、野田街道の橋畔の菓子賣る家に休息して、馬車の來たるを待ち合はす。人家に近き處なれど、一羽の鷺、悠然として淺瀬に立てるは、珍らしやと、茶をのみつゝ、見入る程もなく、がた/\と音して、馬車來たる。乘らむと待ちかまふれば、一人なら乘れるが、二人なら乘れぬといふ。やれ/\、仕方なし。二里半の程なり、歩いて行かむと、冷金子をうながしたてて、歩を進め、松伏、金杉を經て、利根川をわたれば、日暮れたり。路の兩方には、桃林あれど、明らかならず。野田の町に入り
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