てやどる。
 江戸川の左岸、二三里をへだてて、流山は味醂酒にあらはれ、野田は醤油にあらはる。口には、味醂酒と思へど、野田は、八村みな桃なる一大美觀をひかへたる處也。
 あかつき、野田の宿を出でむとすれば、春雨蕭々たり。學生の頃、旅行するに着慣れたるもの也、傘よりはとて、菅笠とござとを買ひて、雨を凌ぐ。冷金子は、蝙蝠傘をもてり。
 町の北端に、愛宕祠あり。富家の多き町の鎭守とて、凝つた構造也。境内を愛趣園と稱す。噴泉を瀧にたらして、小池あり、藤棚あり、種々の老木あり。野田の町に相應したるだけの公園也。祠後に、勝軍地藏あり。近き堤臺には、子育地藏ありて、その名の如く、子育の御利益ありしが、いつしか、徴兵除けといふ不屆千萬なる御利益加はりて、可成り繁昌せし由也。されど、いよいよ日露戰爭はじまりては、徴兵除けでは間に合はず。こゝな地藏尊は、鐵砲除けの御利益ありとの事にて、祈願者多く、いよ/\御利益あらはれ、愚俗が隨喜渇仰の涙したゝりて、幾萬圓の寄附金となり、やがて、改築せられて、裏店ずまひの地藏尊、一躍して大廈高樓に移り替へし給ふべき由は、金額と寄附者の名とを記せる張札の夥しきにても知られたり。されど、知らず、戰爭すみても、なほ繁昌するや、否や。數町ゆきて左折し、桃林の中をゆけば、櫻の竝木の奧に、金乘院あり。仁王尊滿身に紙丸をうけ、左のは、うんと、力みながら、あはや倒れむとす。寺へ入らず、山門につきあたりて、左すれば、集樂園に達す。これ實に關東第一流の公園也。
 浮世は金也。野田の一醤油製造屋の隱者の發起にて、近年開かれたる處、座生沼に臨める高臺の竹藪變じて、庭園となり、櫻あり、松あり、所謂八村の桃を見渡すといふ圓錐丘も沼畔に聳ゆ。座生沼は、長さ一里、幅は五六町なれども、規則正しき長方形ならずして、出入あれば、眺望は可成りにひろし。四周の岸高くして、『山の湖』の趣を有す。崖を下れば、遊覽の舟あり、以て沼に浮ぶべし。鳰くゝと鋭く鳴きて、諸處に浮きては沈む、俗にむぐツてうといふ鳥也。この鳥、都に近き處にては、井の頭池、三寶寺池などにも棲めり。園は、ひろからねど、瀟洒也。休憩宿泊に供する亭もあり。『山の湖』の趣ある沼と、眺望の佳とを、こゝの特色とす。余は、水戸の常磐公園よりも、むしろこの園の自然の趣あるを取らむとす。
[#天から2字下げ]沼ばかり殘して八村桃の花
 桃の八村とは、清水、堤臺、中野臺、吉春、谷津、五木、岩名、築比地、是れ也。築比地は、少し離れて利根川の右岸に在り。他の七村は、沼をめぐる崖下に在り。渡舟を招きて、岩名村にわたる。中流微雨の中に顧望す、幽にして靜なる哉。八村の中、岩名は土地高燥、江戸川と座生沼とに挾まれて、茅屋ぽつ/\あるのみにて、幾んど行人なき塵外の別天地、伸ばさば一方里もあるべき處、見る限り、行く限り、すべて桃花に埋めらる。實に天下の壯觀也。越ヶ谷や、中山や、市川や、こゝを見れば何でも無し。斷言す、野田の桃を見ずんば、未だ桃花の觀を談ずべからざる也。
 堤上に出づれば、江戸川、溶々として流る。對岸一面の桃花は、八村の中の築比地也。白帆、その間を往來して、一種の趣を添ふ。堤つきて、人家の間に入り、新宿《しんしゆく》の渡をわたる。東京の新宿は、しんじゆくと濁れど、こゝは、しんしゆくと澄みて訓む。西金野井村に至る。森をひかへ、川に接して、香取祠あり。土人、かんどりと訓む。入口の前に、大なる欅あり。まはり、六抱へに餘りて、且つ高く、堂々たる者也。神額は蒼海伯の書、石碑に本居豐頴氏が神司の功勞をのべたる文をきざめり。
 川俣東京間を往復する汽船、こゝにも立寄る。乘りて、江戸川を下る。微雨に、所謂午後の風さへ加はれるに、沼をながめることも出來ず、込みあへる乘客の中に、ちよこなんと坐る。煙草ものめぬ身也。地圖をひろげ、厭きては、人の話しあふに、耳かたむけて慰む。野田を過ぎ、新堀割の口にて、船暫らくとゞまる。江戸川は、關宿より利根の本流とわかれ、寳珠花、野田、流山、市川、行徳を經て、海に入る、小利根とも稱す。銚子へゆくに、關宿まで行けば、非常な迂路なれど、こゝより野木崎までに、新掘割出來て、十七八里の水路が、僅々二里かそこらにてすむやうになれり。流山を經て、松戸に上陸す。江戸川の左岸に接して、奧州濱街道に當れる處也。一宿す。
 あくれば、またも雨也。花や散らむとて、成田へと思ふ心をひるがへして、松戸より北千住まで、汽車に由りて、やがて、熊ヶ谷土手に出づ。隅田川の左岸、枕橋より鐘ヶ淵まで、凡そ一里の路、堤の兩側、みな櫻、これ向島也。綾瀬川を入れてより上は、荒川にて、川の名は變れど、堤もつゞき、櫻もつゞけり。この堤は、大宮と川越との間まで續く。熊ヶ谷土手とも云へば、荒川土手とも云ふ。千住あたりは、三軒茶屋堤の稱もあり。櫻は、土手全
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