心かはれるを見て、誓詞書かせんとて、紙とりゆきたるひまに、男逃げゆきぬ。あと追へど、及ばず。女終に熱湯のわき出づる槽中に入りて爛死せるこそいたましけれ。その湯槽は是れなりと指す。槽は蓋ありて、熱湯は見えず。盛んに立ちのぼる湯氣は、むかし李夫人のあらはれし反魂香もかくやと見ゆる夕べの空、湯氣の末に一痕の缺月かすか也。
九 湯ノ嶽
湯本温泉、一に三函の湯と稱す。湯ノ嶽の頂に、三個の石あり。函に似たり。温泉の根原なれば、これを取りて、かくは名づけたるなりとは受取りがたけれど、久しく書窓の下に鎖したる健脚を伸ばさむとて、導者一人やとひて立ち出づ。
湯ノ嶽の麓にいたれば、小野田炭坑あり。馬小屋の如き人家の立ちならべるは、坑夫の住居なるべし。山中に一區を造りて、物賣る家二三軒あり。飮料には一溪の水を分ち、上流に汚れたる衣を洗ふものあれば、下流には米とぐものあり。三四疊ばかりの小屋の中に、妻もこもれり、二三人子供もこもれり。住めばこゝも都なるべし。君と共に住めば手鍋さげてもと、青春の戀にうかるゝ都の若き男女に、かゝるさま見せてやりたし。
導者は、六十ばかりの老人也。自から稱す
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