赤毛布しける腰掛臺、まばゆきばかりに立ちならび、客を呼ぶ少婦の聲さへなまめきたり。思ひしに違はで、花のさかりは過ぎたれど、そよと吹く風にも、もろく散るさま、なか/\にあはれなり。秩父根おろしの春風、名殘を雜木林にとゞめて、櫻には強く吹かざれど、その雜木林の缺くる處は、風の勢つよく、花片一齊に散亂し、空に知られぬ香雪、紛々として面を撲ち、水に落ちて、水は忽ち錦繍となる。げに花のさかり過ぎならでは、見るを得ざる光景とぞ喜びし。左岸の樹疎らなる處、秩父の連山孱顏をあらはし、右岸には、箱根足柄の山々手に取る如く見えて、その上の、八朶の芙蓉峯、倒まに白扇を懸け、花にひときはの趣を添へぬ。
 小金井の中心と思しき小金井橋畔、杖をとゞめて、青※[#「穴かんむり/巾」、第3水準1−84−10]の飜れる柏屋に投ず。二層樓、櫻花に埋もれて、前も左右も皆花なり。欄によりて酒をくみつゝ顧盻す。四面の花何ぞ美なるや。風ふけば、ひら/\と散る花片、時に杯中に落ち來たるも、心ありげなり。屋後の木立に和鳴する幽禽の聲、耳だつばかりにて、樓下を過ぎ行く遊人は多からず。隨つて雜沓せず。物乞ふ三味線の聲、寂寥を破るも、亦惡しからず。一杯又一杯、※[#「酉+它」、第4水準2−90−34]顏終に花と映發するに至りて、樓を下りぬ。
 降りつゞきし雨、路上に微泥をとゞめて、空さりげなく、片雲だになき好天氣、日影ほか/\と暖きに、醉さへ加はりて、陶然として歩す。橋ある毎に路を轉じつゝ、行けども/\櫻未だつきず。喜平橋にいたりて、渇を覺ゆるまゝに、吹き亂れたる櫻樹の下の茶店に休息し、酒にうけし花片を、茶にうけて飮むも、いとをかし。櫻橋よりこの橋まで、五十町にも餘るらむ。花を觀つつ徐歩し來りて、毫もその遠きを覺へず。その水上半里ばかりは、櫻樹なほたちつゞけりとかや。見下す水は、花をのせつゝ流れゆく。流れ/\て何處か春のとまりなるらむ。その流れゆく花に、人生の無常を感ずるも、事ふりにたれど、何となく心悲しく覺ゆ。嗚呼、花開き、花落つる間、今年の人は去年の人ならず。今年花を見る人、明年は何の處にかある。花は散り易く、青春の夢は覺め易し。戀は流水と去りて、浮世の仇波に漂ふ人の身の、夢ならでは、また舊歡を追ふべからず。まことに運命をかこつことの益なきを知れど、酒さめて、涙のおのづから落つるを如何せむ。落花聲なく、流水語らず。
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