右に牧場事務所の門を入れば、庭に一株の老櫻あり。花いまだ開かざるが、幹は二抱へもあるべく、四方八方に枝を張りて、恰も傘の如し。老櫻とは、名づけ得て當れり。低けれども、見事なる老木也。
 門を出でて進みゆくに、十字街を爲せる處より、人家兩側に連なる。新開の寂しき町なれど、宿屋もあり、飮食店もあり。家毎の前に、桶を置く。大さ凡そ四斗樽ぐらゐ、黒く塗りて、擔げるやうに綱をつく。水、其の中に滿てるが、いたく濁れり。飮用水とは見えず。火災に備ふるにやなど語り合ひつゝ、五六町にして、町はづれに至る。後より芝山行の空馬車來りけるが、御者車を停めて、乘らむことを勸む。『仁王の參詣者に非ず。唯※[#二の字点、1−2−22]花見に來りたるなり』といへば、御者また強ひず。『この路を進めば、櫻ありや』と問へば、『有るには有れど、見るに足らず。今少し行きて、左折し、更に左折したる處は、九年畑とて、櫻多し』と、幾度も同じことを繰返す。年は五十を越えたるべく、長くして品の好き顏、赤きこと熟※[#「木+(「第−竹」の「コ」に代えて「ノ」)、「柿」の正字」、第3水準1−85−57]の如し。近寄らば、熟※[#「木+(「第
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