の人之を殺さむ。さらばとばかり、腹には涙、劍は武士が浮世の役目、已むを得ず、首うちおとしけるが、つく/″\無常をさとりて、國へもかへらず、そのまゝ出家して、名を浮世と改め、懇に弘次の菩提を弔へりとぞ。熊谷直實が敦盛に於けると、前後好一對の美談也、この國府臺の公園の一端にある墓は、即ちこの弘次の墓也。傍に露出せる石棺は別にて、上古の制也。
 北條方の事を云へば、氏康は、綱成父子、松田の三人をよびて、大いに之をねぎらひ、今度の戰捷は、汝等三人の力によれり。汝等三人は、我家に於ける漢の三傑なりと賞揚しけるとかや。
 國府臺にては、二度とも敗れたれど、義弘は智勇の名將也。之を先きにしては、安房より進んで、三浦にて北條を破り、海を隔てて、三浦半島を占領せり。國府臺の敗後、北條氏政が佐貫に攻めよせたるに、大いに之を破りて、氏政をして、わづかに身を以て免れしめたり。一勝一敗、義弘は、名將たるに恥ぢざる也。この國府臺の戰の如何ばかり烈しかりしかは、兩軍の死者を數へてもわかるべし。曰く、北條方は三千七百六十人、里見太田方は五千三百二十餘人、凡そ全軍の四分の三也。
 一瓶の酒つきむとして、肴のするめは、多くあまれり。茶屋を守るは、老女一人、針仕事をなす。小猫、その傍に眠る。忽ち飛びたちて逃ぐるを何かと見れば、小犬來れる也。進んで我前に來たる。ふと思ひつきて、するめを與ふること幾回。景色を見入りて、與ふることを忘れしひまに、はや、いづくにか去りぬ。左の袂の方にて、にやアといふ。犬を好みて、猫を好まざれども、さまで嫌ひにもあらず。皿を見れば、するめ猶ほ殘れり。ありツたけ與へけるに、するめ盡きて、猫も亦去りぬ。
 臺を下りて渡舟に乘る。舟夫は、額のつんだる、正直さうな男也。どうして、このやうに水が少なきぞと問へば、いつも、今頃は、この通り也。山がこほる故、水流れ出でず。氷とくる頃には、また水が多くなるなりといふ。明朝は大いに霜がおりて、寒うござりますぞと話しかくるに、なに故ぞと問へば、今日のやうに、どんよりして、東から風がふく時は、明朝は必ず寒きなりといふ。さびしき冬の夕暮、客も一人、船頭も一人。蘆荻、洲に根本まであらはして、枯れながら立てるに、『故壘蕭條蘆荻秋』の句が、場所がら、切に感ぜられぬ。
 上流さして、右岸の堤上を歩す。西天、山の如き一簇の雲を餘して、他の雲は、みな色を生ず。その山の如き雲も、中部は、薄きと見えて、富士の形、黒くあらはれ、其周圍は赤し。川上には、赤城山あはく見ゆ。日光山は男體のみ見えて、大眞子や、女貌や、雲の山の中に沒す。われ國府臺を顧みて、いとゞ感慨に堪へず。日清戰役、日露戰役ありて、武士道とは何ぞやなどと、やかましくなりたるが、武士道はすべてこの國府臺の戰の中にも、ふくまれたり。遠山、富永が屍の上の恥辱なりとて、死を決して先登をのぞみしも、綱成が功をゆづりしも、而して敵の不意を襲ひしも、安西伊豫守が我馬を主君にゆづりて、主君の身代りに立ちしも、三樂齋が死にのぞみて從容として敵に咽輪を教へしも、すべて武士道の精華也。武士道の要は、これ等に盡きたり。されどなほ逸すべからざる一大事件あり。松田左京進が已むを得ず赤子の腕をねぢて、無常をさとりし事也。腹に涙あるとは、かゝる事也。智も勇も、義も禮も、この涙ありてこそ也。之なくば、如何に猛きも、猛獸と異なる所なき也。義の爲には、水火も避けず。されど武夫は、ものの哀れを知る。これ日本の武士の特色也。
 遠く古人に求むるまでも無し。近くは廣瀬中佐が武士道の權化也。日露戰役に於ける旅順閉塞の擧、壯烈鬼神を泣かしむ。而して、中佐は、船が水につかるまでも、部下の兵曹をさぐりて止まざりき。嗚呼、壯烈も、この涙ありての事也。



底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
入力:H.YAM
校正:門田裕志、小林繁雄
2008年8月25日作成
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