を味へ。日本の武士道の一端が迸れる也。使を先陣の北條綱成にやりて、先登を申しうくると言ひやる。綱成、快諾す。其子常陸介、懌ばず、松田左衞門佐も懌ばず、共に之を非難しければ、綱成打ち笑ひ、われ先陣の命をうけたる上は、決して他に讓るべきにあらず。されど、松田殿も、拙者も、これまで幾度となく先陣をつとめたり。今後も勤めざるべからず。凡そ戰に臨むの法は、己れの功を專らとせず、敵を破るを功とす。里見太田は、關東の強敵也。遠山、富永も、當家譽れの侍大將也。その遠山、富永が奮躍して先陣を望むに、己れの功を專らにせむとして、其鋭氣をくじくべきに非ずといふに、常陸介も松田も、成程と感服す。さすがに、綱成は、普通の武將以上に超脱したる一種の達人也。狡猾の趣のみを解する者は、或ひは、之をこすいと云ふなるべし。
こゝに兩軍の兵數を記せむに、北條の方は二萬騎。一方は、里見六千騎、太田二千騎、都合八千騎に過ぎず。衆寡相敵せず。何か地勢の利をたのまざるべからず。されど、國府臺は、さまで、たのみにならざる也。
遠山、富永の二將は、先陣となりて、市川の方より進んで大いに戰ふ。先陣やぶる。後陣來り助く。北條の軍に、清水太郎左衞門といふ剛勇の士あり。老いたれど、無雙の大力なり。樫棒をふりまはして、手當り次第に、薙ぎ倒す。張本人の太田新六郎、之と鬪ふ。いづれも大力なるが、武器に差あり。新六郎の太刀は、清水の樫棒に折られたり。殘念でたまらず、ひきかへして、八尺の鐵棒をもち出し來たる。清水をさがせど、見えず。今は敵を擇ぶべきにあらずとて、見る間に、十八九人を薙ぎ倒す。恐れて近づくもの無し。遠山丹波守馬を進めて、新六郎に向ひ、今日の振舞見事なり。さりながら、なまじひの軍して、雜兵の手にかゝらむより、兜を脱いで來たるべし。わが功にかへて、舊領安堵ならしめむと云へば、あな、事も愚かや。斯かる大事を思ひたちたる身が、何の面目あつて、再び南方に歸るべき。一死は素よりの覺悟なり。いつにかはらぬ御志は、かたじけなけれど、うつも、うたるゝも、戰場の習ひ、御免候へとて、一撃の下に、之をうちつぶす。富永も討死せり。斯くて、先陣の二將は、屍の上の恥辱はうけざる也。北條の軍、終に大いにやぶれて引き退く。氏康、川を渡りて一つになり、綱成の相圖如何にと待つ。綱成は、敵のうしろへまはりたる也。
先陣を遠山、富永二將にゆづりたる達人の綱成は、敵のうしろへ廻らむとの奇策をすゝむ。氏康、大いに喜び、氏政をさし副へぬ。松田もその中に在り。この一軍、上流の迦羅鳴起の渡をわたる。今の松戸附近也。晩に及びて、雨ふり、風寒し。皷躁して、敵の不意を襲ふ。氏康の軍、それと知りて、攻め上る。さすがに猛き義弘も、三樂齋も、前後に敵をうけて、終に大いに敗れぬ。
義弘の馬は、敵の矢に斃れたり。今はこれ迄と覺悟しけるに、安西伊豫守、馳せよりて、馬より下り、義弘に乘らしめて、ひとり留まりて討死せり。かくて、義弘は、わづかに身を免れたる也。
三樂齋もいたく傷を負ひたり。清水太郎左衞門の子、又太郎に組みふせらる。又太郎、首かゝむとて、かき得ず。三樂齋いらつて、其方は、うろたへたるか、わが首には、咽輪あり。ゆるめて掻けといふ。いみじくも指南せられたり。あつぱれ剛なる最期の際、感じ入る。さらばとて、咽輪をおしのけむとする處へ、舍人孫四郎、野本與次郎の兩人來りて、又太郎を引倒し、三樂齋に首をとらせぬ。かくて、三樂齋も漸く免るゝことを得たる也。張本人の新六郎も、創は負ひたれど、奮鬪して、のがれ去れり。
これ實に永祿六年正月八日の事也。余は、『關八州古戰録』によりて書きしるしぬ。言葉も、そのまゝに取れる所あり。『屍の上の恥辱』の語も、或は『古戰録』の作者より出でたるべけれど、それにしても、作者が當時の武士一般の感情を言ひあらはしたるもの也。
茲に氣の毒なるは、里見の侍大將、正木彈正左衞門也。山角伊豫守と組んで、馬より落ちて、上にはなりたるが、落つる拍子に、右の手を突折りたり。左の手のみにては、どうすることも出來ず。曳々聲を出して押付くる間に、終に下よりつき殺されたるは、如何に殘念なりけむ。
なほ物の哀れをとゞめたるは、里見長九郎弘次の身の上也。『鴻臺後記』に據るに、月毛の馬に乘り、母衣かけて、ひとり落ちゆきしに、松田左京進康吉、追ひつき、剛の者なれば、難なく組みふせ、首かゝむとして躊躇す。弘次は、里見一門の大將也。その首をとらば、非常なる手柄也。左京進は、何故に躊躇したるぞ。あゝ他なし。弘次は、大將は大將なれど、これが初陣にして、年わづかに十五、紅顏花をあざむくばかりの美少年也。強敵をえらぶ習ひの武士、しかも物のあはれを知るの武士、いづくんぞ赤子の腕をねぢるに忍びんや。助けばやとは思へど、味方も多く進み來りぬ。われ助くるとも、他
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