かな無数の起伏を広々と涯《はて》しもなく押し拡げて、彼方には箱根山が、今日もまた狭霧《さぎり》にすっぽりと包まれて、深々と眠っていた。
 裏庭の広場からは、薪を割る安吉老人の斧の音が、いつもながら冴え冴えと響きはじめ、やがて静かな宵闇が、あたりの木陰にひたひたと這い寄って来る。浴室の煙突からは、白い煙が立上り、薪割りをしながら湯槽《ゆぶね》の金剛と交しているらしい安吉老人の話声が、ボソボソと呟くように続く。おとみ婆さんは、夕餉《ゆうげ》の仕度に忙しい。
 間もなく岳陰荘では、ささやかな食事がはじまった。が、大月弁護士はまだ二階から降りて来ない。心配したおとみ婆さんが、階段を登りはじめた。と、重い足音がして、大月が降りて来た。
 けれどもやがて食卓についた彼の顔色を見て、おとみ婆さんは再び心配を始めた。
 僅か一時間ばかりの間に、二階から降りて来た大月は、まるで人が変ったようになっていた。血色は優れず、両の眼玉は、あり得べからざるものの姿でも見た人のように、空《うつ》ろに見開かれて、食器をとる手は、内心の亢奮を包み切れずか絶えず小刻《こきざみ》に顫えていた。
 大月は黙ってそそくさと食事
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