気がつかないのです。それにあの男は、大変神経質で気の小さな男ですから、うっかり注意してやっても、却《かえっ》て悪い結果を齎《もたら》してはと思いまして、それとなく機会を覗《うかが》っていたのです。ところが、つい四、五日前に、二人で岳陰荘を使いたいからと申込まれましたので、早速貸してやりました。けれども、昨日《きのう》東京を出発の際、私共夫婦で見送りに出たんですが、てっきり二人だけと思っていたのに、川口の細君も同行するのだと云ってついて来ているので、少からず驚いた次第でした。何も知らない川口は川口で、当分滞在するのだなどと、すっかり無邪気に躁《はしゃ》いでいますし、私共は大変心配しました。……で、こちらへ移って、三人だけの生活がどんなになるかと思うと、うっかり私も堪らない気持になりまして、発車間際の一寸《ちょっと》の隙をとらえて、ついそれとなく川口に『あちらへ行ったら、不二さんに注意しなさい』と言ってやりました。……後で、後悔したのですが、やっぱりこれが悪かったのです」
「と被仰《おっしゃ》ると?」
司法主任の声は緊張している。
「つまり……私が……」
白亭は一寸戸惑った。
すると主任がすかさずたたみかけた。
「いや、判りました……つまり、富士山は、不二さん、に通ず……なんですね」
「いいえ、そう云うわけでは」
「ああいや、よく判りました……こりゃ、すっかり考え直しだ」
そう云って司法主任は、椅子の中へそり反りながら、
「お蔭で、何もかも判り始めました。あの疑問の中心の妙な油絵も、こう判って見れば、まことに理路整然として来ますよ……そうだ、全く今になって考えてみれば、あの富士山の絵も、やはり南室で描かれたものではなく、最初の発見通り東室で、被害者の死際に描かれたものですね……あの東室の床の上の油の零《こぼ》れ工合と云い、その上を被害者の足の滑った跡の工合と云い、全くあれは、贋物にしては出来過ぎていますよ。あの屍体は南室から運ばれたのではなく、始めから東室にあったんですね。……つまり、今あなたの被仰《おっしゃ》ったように、金剛氏と不義関係にあった被害者の妻が、南室で荷物の整理をしながら、一寸の隙を見て東室へ忍び入り、これから写生をしようとしていた被害者を、後から殴り殺して、再び南室に戻り知らぬ顔をしている……一方断末魔の被害者は、倒れながら自分に危害を加えた妻を見て、恐怖にひっつりながらも死物狂いで目の前のカンバスへ、恰度持合わせた絵筆をふるって、加害者の名前を描く……いや、これは傑作だ……不二は富士、に通ずる……全く傑作です!」
司法主任は、相手にかまわず独りで満足している。こうして白亭の意外な陳述は、忽ち不二の立場を、真ッ暗な穴の中へ陥入れてしまった。屍体の運搬説は転じて奇妙な遺言説? となり、警察司法部は俄然色めき立って来た。
一方津田白亭は、自分の証言が意外な波紋を惹き起したのにすっかり狼狽してしまい、事態の収拾を大月弁護士に投げ出してしまった。
そこで大月は色々と策戦を練った上、容疑者の検挙に何等の物的証拠のないのを主要な武器として、今度は直接警察署長に向って猛烈な運動をしはじめた。
この折衝は翌日の正午《ひる》まで続けられた。そしてその結果、これは大月の名声も大いに与《あずか》って力あった事は否《いな》めないのだが、ひとまず容疑者の検束は延期になり、やがて一行は岳陰荘へ引挙げて来た。
そしてその翌日、東京へ解剖に送られる亜太郎の屍体と一緒に、津田白亭と川口不二は葬儀、その他の準備のために私服警官付添の上で上京し、一方弁護士の大月対次は岳陰荘に踏み留まって、金剛蜻治を表面助手として、内心では「こいつも同じ穴の貉《むじな》だわい」とひそかに監視しながら、事件の解釈と新しい証拠の拾集に没頭しはじめた。
亜太郎の残した奇怪な油絵については、大月はその絵をひと目見た瞬間から、司法主任の遺言説に深い疑惑を抱いていた。
もしも亜太郎が、その断末魔に臨んで、自分を殺した者が妻の不二であることを第三者に知らせるために、あのような富士山の絵を描き残した、と解釈するにしては、余りにもあの絵には余分な要素が多過ぎる。
例えば木立だとか、空だとか……そうだ。もしも亜太郎が、妻の名前を表わすために描いた絵であったなら、富士山ひとつで充分だ。あのようないくつかの余分な要素を、しかもあれだけ純然たる絵画の形式に纏め上げるだけの意力が、既に死期に臨んだ亜太郎にあったのならば、もっと直截に、文字で例えば「不二が殺した」とか、或は「犯人は不二だ」とか、まだまだいくらでも表わしようはある。いやなによりも、窓際に飛び出して、絶叫することすら出来る筈だ。――問題は、もっと別なところにあるに違いない。
二階の東南二室の間を、コツコツと往復
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