では夜分なんぞ、いつもかなり遅くまで御書見なさったり、お書き物をなさったりなされました御習慣が、ふっつりお止まりになりまして、かなり早くから女中にお床をお取らせになって、お睡《やす》みになるのでございます。そして戸締りなぞにつきましても、いままでより一層神経質になり、厳しくおっしゃるのでございます。――気のせいか、そうして日毎に御容子のお変わりになって行く旦那様のお側におりながら、私共は、ただわけもわからず、オドオドいたすばかりでございました。……
――いや、ところが、こうしたまるで『牡丹燈籠《ぼたんどうろう》』の新三郎のような不吉な御容子は、そのまま四日ほども段々高まり続いて、とうとう恐ろしい最期の夜が参ったのでございます。
――いや全く[#底本では「いま全く」と誤植]、今思い出してもゾッとするような恐ろしい出来事でございました。……なんでも、あの日女中の澄さんは、千葉の里から兄さんが訪ねて来まして、一晩お暇をいただいて遊びに出掛け、旦那様のお世話は、この老耄《おいぼれ》が一人でお引き受けいたしていたのでございますが、六時頃に夕飯をおすましになりますと、旦那様は、御書斎から何か書類の束をお持ち出しになって、
「明日から二、三日、学校の方を休みたいと思うから、これを早稲田の上田《うえだ》さんへお届けして、お願いして来てくれ」
とおっしゃるのでございます。上田様とおっしゃるのは、学校で旦那様の代理をなさる先生でございます。まだその時は時間も早うございましたし、二時間もすれば充分帰って来られると思いましたので、早速お引き受けいたしまして、田端駅から早稲田まで出掛けたのでございます。むろん私は平素のお指図通り、戸締りはきちんとし、表門なぞも固く閉して勝手口からこっそりと出掛けたのでございますが、なんと申しましても、旦那様をお一人で残して置くなぞというのは、そもそも了見違いだったのでございます。
――御用をすまして帰って参りましたのが、意外に遅くなって八時半。てっきり旦那様にお小言を受けるに違いないと、舌打ちしながら、急いで廊下を御書斎の前まで参りまして、扉の外から、
「行って参りました」
恐る恐るお声を掛けたのでございます。ところが御返事がございません。もう一度声を掛けながら、扉をあけてお部屋の中へ一歩踏み込んだ私は、その時思わずハッとなって立ち竦《すく》んだのでございます。――どこへお出掛けになったのか、旦那様のお姿が見えません。いやそれどころか、お庭に面した窓のガラス扉が一方へ押し開けられて、その外側の窓枠にはめてあるはずの頑丈な鉄棒が、見ればなんと数本抜きとられて外の闇がそこだけ派手な縞《しま》となって嘘《うそ》のように浮き上がっているではございませんか。私は思わずドキンとなってその方へ進みかけたのでございますが、進みかけて、ふとかたわらの開放された襖《ふすま》越しに、畳敷《たたみじ》きのお居間の中へ目をやった私は、今度はへなへなとそのままその場へ崩れるように屈《かが》んでしまいました。お居間の床柱の前に仰向《あおむ》きに倒れたままこと切れていられる旦那様をみつけたからでございます。――お姿はふためと見られないむごたらしさで、両のお眼を、なにかまるで、ひどく凄いものでもご覧になったらしくカッとお開きになったまま、お眼玉が半分ほども飛び出して、お顔の色が土色に変わっているではございませんか。見渡せば、お部屋の中は大変な有様で、旦那様もかなり抵抗なさったと見え、枕や座布団や火箸なぞがところかまわず投げ出されているのでございます。……
――さアそれからというものは、いったい私は何をどうしたのか、いまから考えても、サッパリその時の自分のとった処置が、思い出せないのでございますが……なんでも私の気持が少しずつ落ち着いて参りました頃には、もう大勢の警官達が駆けつけて、調査がどしどし進められ、世にも奇怪な事実が、みつけられていたので[#「いたので」は底本では「いたの」と誤植]ございます。
――なんでも、警察の方のお調べによると、旦那様のところへやって来た恐ろしいものは、明らかに、一人で、庭下駄を履《は》いて来たというのでございます。それは表門の近くの生垣を通り越して、玄関、勝手口を廻って庭に面した書斎の窓に到るまでの所々の湿った地面の上に、同じ一つの庭下駄の跡が残っていたからで、しかもその庭下駄の跡は歯と歯の間に鼻緒の結びの跡がいずれも内側に残っていて、ひどく内側の擦《す》り減った下駄であることが直ぐにわかったというのでございます。
私は、警察同士で語り合っているこの説明を聞いた時には思わずギクンとなりました。それは――前にも申し上げましたように、お亡くなりになりました奥様は、日本趣味で、髪もしょっちゅう日本髪に結《ゆ》って
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