も[#「なんとも」は底本では「何となく」と記載]お気の毒な次第で……なんでも、あとから伺《うかが》ったことでございますが、奥様は簡単な書置きをお残しになって、自分はどこまでも潔白であるが、お疑いの晴れないのが恨めしい、というようなことを、旦那様あてにお残しになったということですが、そのお手紙を持って、人形町からの使いが、奥様の急死を旦那様へお知らせに来ました時にはさすがの旦那様も、急にお顔の色がサッとお変わりになりました。
 ――いや皆さん。ところが学者というものの偏屈さを私はその時しみじみ感じましたよ。……とにかく、命を投げだしてまで身の潔白を立てようとなさった奥様ではございませんか、よしんばどのような罪がおありなさったとしても、仏様になってからまで、そんなにつらくお当たりになることもないんですのに、ところが旦那様は、一旦離縁したものは妻でも親族でもないとおっしゃって、青い顔をなさりながらも、名誉心が高いと申しますか、意地が悪いと申しますか、お葬式にさえ、お顔をお出しになろうとなさらなかったのでございます。そうして、私共の気を揉《も》むうちに、どうやら御実家のほうだけで御葬儀もすんでしまい、あの取り込みのあとの言いようのない淋しさが、やって来たのでございます。……
 ――さて、これで、このまま過ぎてしまえば、なんでもなかったのでございますが、実を申しますと、いままでのお話は、ほんの前置きでございまして、話はこれから、いよいよ本筋に入り、とうとう皆様も御存知のような、恐ろしい出来事が持ち上がってしまったのでございます。
 ――ところで、いちばん初め、旦那様の素振《そぶ》りに変なところの見えだしましたのは奥様の御葬儀がおすみになりましてから、三日目のことでございました。いまも申し上げましたように、旦那様は偏屈をおっしゃって、御葬儀にも御出席になりませんでしたが、旦那様はそれでいいとしましてもお世話になりました私共がそれではすみません。それで、なんとかして、せめてお墓参りなどさしていただきたいものと存じまして、それとなく旦那様にお願いいたしましたところ、それまで表面はかなり頑固にしてみえた旦那様も、さすがに内心お咎《とが》めになるところがあるとみえまして、
「では、わしも、陰ながら一度|詣《もう》でてやろう」
 とおっしゃいまして、早速お供を申し上げることになったのでございます。
 申し忘れましたが、奥様の御墓所は谷中墓地でございまして、田端のお邸からはさして遠くもございませんので、私共は歩いて参りましたのでございますが、なにぶん旦那様の学校がお退《ひ》けになりましてから、お供したのでございますので、道灌山を越して、谷中の墓地に着きました時には、もうそろそろ日も暮れ落ちようという、淋しい時でございました。
 奥様の御実家の、御墓所の位置は、以前にもおいでになったことがございまして、旦那様はよく御存知でございますので、早速お花を持ってそちらへお出掛けになるし、私は、井戸へお水を汲みに参ったのでございます。ところがお水を汲みまして、私が、一足遅れて御墓所のほうへ参ろうといたしますと、たったいまそちらへお出掛けになったばかりの旦那様が、こう、青いお顔をして、あたふたと逃げるように引き返しておいでになり、
「急に気持が悪くなったから、これで帰ろう。自動車を呼んでくれ」
 とおっしゃるのでございます……いやどうも、全くびっくりいたしました。私としましては、折角《せっかく》そこまで参ったのでございますから、とてもそのまま引き返したりなぞしたくなかったのでございますが、さりとて、お加減の悪い旦那様を捨てても置かれず、残念ではございましたが、そのまま一旦桜木町の広い通りへ出まして、遠廻りながらそこから自動車を拾って、お宅まで引き返してしまったのでございました。……
 あとで考えてみれば、少し無理と思いましても、あの時旦那様だけお返しして、私だけ、直《す》ぐに引っ返してお墓参りをしましたなら、あるいはあの時、人気のない墓地の中で旦那様がご覧になったものを、私も見ることができたかも知れないと、おっかなびっくり考えたものでございますが何分その時は、変だなとは思いながらも、旦那様の御容態の方が心配でしたので、そんな分別《ふんべつ》も出なかったわけでございます。
 ――さて、御帰宅なさいましてから、旦那様の御加減は間もなくお直りになりましたが、その日から、旦那様の御容子が、少しずつ変わって参ったのでございます。……いつになってもお顔の色は妙に優《すぐ》れず、お眼が血走って、いつもイライラなさっていられるのを見ますと、私共は、まだ本当にお加減はよくなっていられないのだなと、思われたほどでございます。
 ――そうそう、こんなこともございました。なんでも、いまま
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