なって来た。
しかし、その不安は、全く適中していた。恰度その頃鰊倉庫の横丁では、とり返しのつかない恐ろしい惨劇が持上っていたのだ。
酒場《みせ》の前を避けるようにして、霧次《ろじ》伝いにさっきの場所まで引返して来た女は、そこの街燈に照された薄暗《うすやみ》の中で、倉庫の板壁へ宮守《やもり》のようにへばりついたまま、血にまみれた安吉の無残な姿をみつけたのだった。鯨のとどめを刺すに使う捕鯨用の鋭い大きな手銛で、虫針に刺された標本箱の蛾のように板壁へ釘づけにされた安吉へ、女が寄添うと、断末魔の息の下から必死の声を振絞って、
「く、く、釧路丸の……」
とそこまで呻いて、あとは血だらけの右手を振上げながら、眼の前の羽目板へ、黒光りのする血文字で、
――船長《マスター》だ――
と、喘ぎ喘ぎのたくらして行った。そしてそのまま、ガックリなってしまった。
三
根室の水上署員が、弥次馬達を押分けるようにして惨劇のその場に駈けつけたのは、それから三十分もあとの事だった。
倉庫の横の薄暗い現場の露次には、激しい格闘の後が残されていた。板壁に釘づけにされるまでに、もう安吉はかなりの苦闘を続けたと見えて、全身一面に、同じ手銛の突創《つききず》がいくつも残されていた。激しい手傷を受けて、思わず板壁によろめきかかった安吉に、背後から最後のとどめを突刺して、そのまま犯人は逃げ去ったものらしい。
取外された屍体は、直ぐに検屍官の手にうつされたが、しかしこれと云う持物はなにもなく、安吉がどこをどんなにして歩き廻っていたか、恐ろしい秘密を物語るような手掛は、一つも残っていなかった。
今度こそ本当に未亡人になった女と、丸辰の親爺、それから最初酒場の扉口《とぐち》に安吉を見たマドロス達は、その場で一応の取調べを受けた。丸辰は、自分の見ただけのことを勝手に喋舌《しゃべ》って、それから先が判らなくなると、「鯨の祟り」を持出した。そいつの尻馬に乗ってマドロス達は、同じように勝手な憶測ばかり撒き散らして、なんの役にも立たなかった。しかし安吉の妻の陳述によって、その不満は半ば拭われ、警官達には、事件の外貌だけがあらまし呑み込めて来た。
重なる異変に気も心もすっかり転倒しつくした安吉の妻は、夢うつつで後さきもなく、夫の断末魔の有様を述べて行ったが、述べ進むにつれて少しずつ気持が落付いて来ると、最初生き帰って来た夫の何者かを恐れているらしい不可解な態度や、あわただしい自分の逃げ仕度など、繰《たぐ》り出すようにしながら、ともかくも首尾を通して説明することが出来るようになって来た。
やがて、根室の町から港へかけて、海霧《ガス》に包まれた闇の中に、非常線が張られて行った。
安吉の告げ残した「釧路丸」と云えば、同じ岩倉会社の姉妹船で、北海丸が去年の秋に沈没した折、いち早く救助に駈けつけた捕鯨船ではないか。その船の船長が、安吉の殺害犯人なのだ。手配は直ぐに行届いて、峻厳な調査がはじめられた。
すると、真ッ先に海員紹介所から、耳よりな報告がはいった。
それによると、恰度惨劇の起った時刻の直後に、灰色の大きなオーバーを着た恰幅のいい船長《マスター》級の男が、砲手の募集にやって来たが、時間外で合宿所のほうへ廻ると、そこにゴロゴロしていた失業海員の中から、砲手を一人雇って行ったと云うのだ。その船長《マスター》は、なにか事ありげに落付きがなく、顔を隠すようにしていたが、玄関口で雇入れの契約中を立聞きした一人のマドロスは、乗込船の名を、確かに釧路丸と聞いた。
そこで、波止場の伝馬船が叩き起されて、片ッ端から虱潰《しらみつぶ》しに調べられた。けれども、新しい砲手を雇った船長《マスター》は、まだ陸地にうろついているのか、それとも自船の伝馬で往復したのか、それらしい客を乗せて出た伝馬は一艘もいなかった、しかし、その調べのお蔭で、もう一つの新らしい報告が齎《もた》らされた。
それは、宵の口に帰港した千島帰りの一トロール船が、大きなうねりに揺られながら、海霧《ガス》の深い沖合に錨《いかり》をおろしている釧路丸を見たと云う。
水上署の活動は、俄然活気づいて来た。
齎らされた幾つかの報告を組合して、小森安吉を殺した釧路丸の船長は、海員合宿所から一人の砲手を雇うと、早くも自船の伝馬船に乗って、沖合に待たしてあった釧路丸へ引挙げたことが判って来た。
執拗な海霧《ガス》を突破って、水上署のモーターは、けたたましい爆音を残しながら闇の沖合へ消えて行った。
けれども、追々に遠去かって行ったその爆音は、どうしたことか十分もすると、再びドドドドドド……と鈍く澱《よど》んだ空気を顫わして、戻り高まって来た。と思うと、今度は右手の沖合へ、仄明くサーチライトの光芒《ひかり》をひらめかして、大きく円を描きながら消え去って行った。消え去って行ったのだがやがてまた今度は左の方に舞い戻り、舞い戻ったかと思うと戻り詰めずに再び沖合へ……
釧路丸は、もうとっくの昔に錨を抜いていたのだ。
四
「おい、美代《みよ》公。元気を出せよ」
翌《あく》る日の午下《ひるさが》り。夜でさえまともには見られない疲れ切ったその酒場へ、のっそりとやって来た丸辰の親爺は、そこの片隅で、睡《ね》不足の眼を赤く濁らせ、前をはだけて子供に乳を飲ませながらしょげ込んでいた安吉の妻へ、そう云って笑いながら声をかけた。
「まア、悪い夢でも見たと思って、諦めるんだぜ」
けれども、女が黙り込んでそれに答えないと、いままでカウンターに肱を突いて、女と話し込んでいたらしい酒場《みせ》の亭主のほうへ、向き直りながら話しかけた。
「昨夜《ゆんべ》の、水上署の大|縮尻《しくじり》を、見ていたかい。沖でグルグルどうどうめぐりよ。見てるほうで気が揉めたくらいだった。……いやしかし、どうもこいつア、思ったよりも大きな事件になるらしいぜ」
「いったい、どうなったんかね?」
亭主が乗出して来ると、丸辰は例のガタ椅子を引寄せて腰掛けながら、
「まんまと釧路丸に逃げられて、今度は、各地の監視船へ電信を打ったんだ。つまり、みつけ次第釧路丸をひっつかまえるように、頼んだわけさ」
「ほウ、水上署から、水産局の監視船へ、事件が移牒《うつ》されたってわけだね?」
亭主が不精髯をなで廻した。
「うン、まアそんなこったろ……だが、なんしろ海は広いんだから、まだみつからない……ところが、一方そうして監視船に海のほうを頼んだ警察は、それから直ぐに、岩倉さんの事務所を叩き起したんだ。ところが、宿直の若僧が寝呆けていてサッパリはか[#「はか」に傍点]が行かないと、業を煮やして、今度は署長が自身乗り出して、社長邸へ乗り込んで、岩倉さんにジカに面会を申込んだわけさ……ここまでは、まずいい。ところがここから先が、面倒なことになったんだ。と云うのは、なんでも岩倉の大将、ことが面倒だとでも察したのか、頭が痛むとかなんとか云って、逃げたがったんだそうだ。が、まアしかし、結局|行会《ゆきあ》って、署長から、これこれ云々《しかじか》と一部始終を聞き終ると、どうしたことかサッと顔色を変えて、なんだか妙にうろたえながら、『そいつはなんかの間違いだ。釧路丸は、いまは根室附近になぞおりません』と云うようなことを、答えたんだそうだよ」
「ふム、成る程。あの大将、なかなかの剛腹者だからな……それで、いったい釧路丸は、どっちの方面へ出漁《で》ているって云ったんかね?」
「うんそれが、なんでも朝鮮沖の、欝陵島《うつりょうとう》の根拠地へ出張《でば》ってるんだそうだ。成る程あそこは、ナガス鯨の本場だからな」
「ヘエー? だがそれにしても、欝陵島とは、大分方角が違っとるね」
「いや、とにかくそれで」と丸辰は手の甲でやたらに口ばたをコスリながら、「もうその時署長は、どうも岩倉の大将の云うことは、おかしいなとは思ったんだが、どの途《みち》その場ではケジメもつけかねて、まず一応引きあげた。引挙げてそれから直ぐに、欝陵島のほうへ電信を打った。岩倉の大将の云ったことは本当か嘘か、いや嘘には違いなかろうが、そこんとこに何かごまかしがありはしないか、それが嘘だと云う証拠を握らねばと云うので、抜からず調べて貰った。返事は向うの警察から直ぐにやって来た。ところがどうだい、まず大将の云うように、岩倉会社の釧路丸は、当地を根拠地にして、一ヶ月ほど前から来とることは確かだ、が、しかし、今はいない。三日ほど前から出漁中で、まだ帰っていないってんだよ。いいかい、つまり事件のあった昨日《きのう》の前々日から、向うの根拠地を出漁したと云うんだぜ。出漁したんだから広い海へ出たんだ。どこの海でどんな風にして捕鯨をしとったか、果してあそこらの海でうろうろ鯨を追っていたのかどうか、さアそいつは誰も見ていた人はないんだから、流石《さすが》の岩倉社長も証明することは出来ないよ」
「いよいよ怪しいな」
「うン、怪しいのはそれだけじゃアない。問題はその釧路丸が、事件のあった昨晩、海霧《ガス》の深い根室《ここ》の港へやって来て、それも人目を忍ぶようにしてこっそり沖合にとまっていたと云うんだから、こいつア変テコだろう。おまけに、その釧路丸の調査について、署長の訪問を受けた岩倉の大将が、サッと顔色を変えて、妙にうろたえはじめたってんだから、いよいよ以ってケッタイさ。つまり岩倉の大将も、釧路丸は日本海にいるなんて云って、根室へこっそり帰って来たことは、出来るだけ隠したい気持なんだ。こいつが、警察の見込みを、すっかり悪くしてしまった」
「そりゃそうだろう」と亭主は身をそらして腕を組みながら、「そんな風じゃ、岩倉の見込みの悪くなるのも、ムリはないな……どうもこいつア、成る程大きな事件になりそうだな。なに[#「なに」に傍点]かがあるぜ。そこんとこに……」
「うン大有りだ。確かになに[#「なに」に傍点]かがある……どうも、俺の思うには、あの北海丸が沈んだ時に、生き残った砲手の安吉が、いったいどうして釧路丸なんかに乗り込んでたか、ってのがまず問題だと思うよ……むろん俺は安吉が、大ッぴらで釧路丸に乗ってたのなんか、見たことアないが、昨夜、安吉を殺した釧路丸の船長《マスター》が、代りの砲手を雇って消えたってんだから、いままで安吉は、釧路丸に乗り込んでいたってことに、ま、理窟がそうなる」
「待ちなよ……」とこの時亭主は首を傾《かし》げながら、「あの北海丸が沈んだ時に、一番先に駈けつけたのが釧路丸だったんだから……そうだ。安吉は、運よく釧路丸に救い上げられたんじゃアないかな?」
すると今まで、気の抜けたようにボンヤリして、二人の話を聞いていた安吉の妻が、顔を上げて云った。
「お前さん。それならなぜ安吉は、直ぐその時に、救けられたって、喜んで帰ってくれなかったのさ」
「う、そこんとこだよ」と丸辰が弾んで云った。「救けられても、直ぐに帰って来なかったと云うんだから、俺ア、そこんとこに、なに[#「なに」に傍点]かこみ入った事情があると思うんだ。帰って来たくなかったのか……それとも、帰りたくても帰れなかったのか?」
「まさか、監禁されてたわけでも……」と亭主は不意に顔色を変えて、「おい、とっつあん。……北海丸は、どうして、何が原因で沈んだんだったかな?」
「え? なんだって?」と丸辰は、顔をしかめて暫く考え込んだが、「……まさか、お前は、釧路丸が故意に北海丸を……いや、なんだか気味の悪い話になって来たぞ……こいつアやっぱり、鯨の祟りが……」
そう云って、ふと口を噤《つぐ》んでしまった。
表扉を開けて、若いマドロスが二人はいって来た。椅子について顎をしゃくった。安吉の妻が煩わしそうに立上って、奥へはいってしまうと、亭主は起直って、客のほうへ酒を持って行った。
「しかし、とっつあん。どうして又お前さんは、そんなに詳しく警察のほうの事情が判ったんだい?」
再び元の席へ帰って来た亭主は、調子を改めてそう云った。すると丸辰は、思いついたよ
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