動かぬ鯨群
大阪圭吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)行衛《ゆくえ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)捕鯨船|北海丸《ほくかいまる》

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(例)※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
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          一

「どかんと一発撃てば、それでもう、三十円丸儲けさ」
 いつでも酔って来るとその女は、そう云ってマドロス達を相手に、死んだ夫の話をはじめる。捕鯨船|北海丸《ほくかいまる》の砲手で、小森安吉《こもりやすきち》と云うのが、その夫の名前だった。成る程女の云うように、生きている頃は、一発|銛《もり》を撃ち込む度に、余分な賞与にありついていた。が、一年程前に時化《しけ》に会って、北海丸の沈没と共に行衛《ゆくえ》が知れなくなると、女は、僅かばかりの残された金を、直ぐに使い果して、港の酒場で働くようになっていた。砲手は、捕鯨船では高級な船員だった。だから雑夫達と違って、ささやかながらも一家を支えて行くことが出来た。夫婦の間には、子供が一人あった。女は愚痴話をしながら、家に残して来たその子供のことを思い浮べると、酔も醒めたように、ふと押黙って溜息をつく。
 最初のうちは、夢のように信じられなかった夫の死も、半|歳《とし》一年と日がたつにつれ、追々ハッキリした意識となって、いまはもう、子供のためにこうして働きながら、酔ったまぎれに法螺《ほら》とも愚痴ともつかぬ昔話をするのが、せめてもの楽みになっているのだった。
 北海丸と云うのは、二百|噸《トン》足らずのノルウェー式捕鯨船で、小さな合名組織の岩倉《いわくら》捕鯨会社に属していた。船舶局の原簿によると、北海丸の沈没は十月七日とあった。その日は北太平洋一帯に、季節にはいって始めての時化《しけ》の襲った悪日だった。親潮に乗って北へ帰る鯨群を追廻していた北海丸は、日本海溝の北端に近く、水が妙な灰色を見せている辺《あたり》で時化《しけ》の中へ捲き込まれてしまった。
 最初に救難信号《エス・オー・エス》を受信《きき》つけたのは、北海丸から二十|浬《カイリ》と離れない地点で、同じように捕鯨に従事していた同じ岩倉会社の、北海丸とは姉妹船の釧路丸《くしろまる》だった。釧路丸以外にも、附近を航行していた汽船の中には、その信号を聞きつけた貨物船が二艘あった。しかし、海霧《ガス》に包まれた遭難箇所は、水深も大きく、潮流も激しく、荒れ果てていて到底近寄ることは出来なかった。
 小船の北海丸は、浸水が早く沈没は急激だった。海難救助《サルベージ》協会の救難船が、現場に馳《は》せつけた頃には、もう北海丸の船影はなく、炭塵や油の夥しく漂った海面には、最初にかけつけた釧路丸が、激浪に揉まれながら為《な》す術《すべ》もなく彷徨《さまよ》っているばかりだった。
 S・O・Sによれば、遭難の原因は衝突でもなければ、むろん坐礁、接触なぞでもなかった。ただ無暗と浸水が烈しく、急激な傾斜が続いて、そのまま沈没してしまった。しかし、まだ老朽船と云うほどでもない北海丸が、秋口の時化《しけ》とは云え、何故そんなに激しい浸水に見舞われたのか、それは当の沈没船から発せられた信号によってさえも、聞きとることは出来なかった。捜査は、救難船と釧路丸の手によって続けられた。けれども時化《しけ》があがって数日たっても、北海丸は発見されなかった。
 それから、もう一年の月日が流れている。
 根室の港には、やがてまた押し迫って来る結氷期を前にして、漁期末の慌しさが訪れていた。
「どかんと一発撃てば、それでもう、三十円丸儲けさ」
 夜になると底冷えがするので、もう小さな達磨《だるま》ストーブを入れた酒場では、今夜もまた女の愚痴話がはじまっていた。
「人間なんて、あてになるもんじゃないよ……ね、そうじゃない? 丸辰《まるたつ》のとっつあん……」
「みんな、鯨の祟《たた》りだよ」
 丸辰と呼ばれた沖仲士らしい老水夫は、酒に焼けた目尻をものうげに起しながら、人々を見廻わすようにして云った。
「鯨の祟りだよ。仔鯨を撃つから、いけないんだ」
「とっつあん。また、ノルウェー人かい?」
 トロール漁船の水夫らしい男が、ヤジるように云った。
 鯨の祟り――しかしそれは、一人丸辰の親爺だけではなく、北海丸の沈没の原因について、根室港の比較的歳取った人々の間に、もうその当時から交されていた一つの風説だった。まだ日本の捕鯨船にノルウェー人の砲手達が雇われていた頃から、その人達によって云い伝えられた伝説だった。
「仔鯨を撃つ捕鯨船には、必らず祟りがある」
 宗教に凝った異邦人達は、そう云って仔鯨撃ちを恐れ拒んだ。もっともそれでなくても、鯨類の保護のために、仔鯨を撃つことは法律を以って固く禁ぜられていた。親鯨でさえもその濫獲を防ぐためには、政府は捕鯨船の建造を、全国で三十艘以内に制限しているのだった。しかし、捕鯨能率を高めるために、監視船の眼のとどかぬ沖合で、秘かに仔鯨撃ちも犯す捕鯨船は、時折りあるらしかった。
 根室の岩倉会社には、二艘の持船が許されていた。北海丸と釧路丸がそれだった。そして海霧《ガス》の霽《は》れた夕方など、択捉《えとろふ》島の沖あたりで、夥しい海豚《いるか》の群に啄《も》まれながら浮流《うきなが》されて行く仔鯨の屍体を、うっかり発見《みつ》けたりする千島帰りの漁船があった。丸辰流に言えば、その鯨の祟りを受けて、北海丸は沈没した。そしてもう、一年の月日が流れてしまった。岩倉会社は、損害にもひるまず、直ぐに新らしい第二の北海丸を建造して、張り切った活躍を続けているのだった。
 丸辰の親爺は、酒に酔っぱらった砲手の未亡人が、客を相手に愚痴話をはじめだすと、きまって鯨の祟り――を持出す。そして話がそこまで来ると、殆んど船乗りばかりのその座は、妙に白けて、皆ないやアな顔をして滅入《めい》り込むのが常だった。
 今夜も、とどのつまり、それがやって来た。
 海から吹きつける海霧《ガス》が、根室の町を乳色に冷くボカして、酒場の硝子《ガラス》窓には霜のような水蒸気が、浮出していた。真赤に焼けたストーブを取巻いて、人々は思い出したように酒を飲んだ。冷くさめ切った酒だった。
 外には薄寒い風が、ヒューヒューと電線を鳴らして、夜漁の船の発動機がタンタンタンタンと聞えていた。なぜか気味の悪いほど、静かな海霧《ガス》の夜だった。人々は黙りこくって、苦い酒を飲み続けた。
 けれども、そうした白けきった淋しさは、永くは続かなかった。
 全く不意の出来事であったが、いままで酒臭い溜息をもらしながら、ボンヤリ人々の顔を見廻していた砲手の未亡人が、突然ジャリンと激しく器物を撒《ま》き散らしながら、テーブルを押し傾《かし》げるようにして立ちあがった。顔色は土のように青《あお》褪め、恐怖に見開らかれたその眼は、焼きつくように表の扉口《ドア》へ注がれている。
 水蒸気に濡れたそこの硝子扉《ガラスど》には、幽霊の影がうつっていた。――ゴム引きの防水コートの襟を立てて、同じ防水帽を深々とかむった影のような男が、外から硝子扉《ガラスど》にぴったり寄添って、蓬々《ぼうぼう》に伸びあがった髯面を突出しながら、憔悴しきった金壷眼《かなつぼまなこ》で、きょろきょろとおびえるように屋内を見廻していたが、直ぐに立上った女の視線にぶつかると、こっそり眼配《めくばせ》でもするように頤《あご》をしゃくって、そのまま外の闇へ消えてしまった。
 それは沈没船北海丸の砲手、死んだ筈の小森安吉だった。

          二

 酒場の中では、人々が総立ちになった。
「お前の、亭主じゃないか」
 丸辰が、すっかり酔のさめた調子で云った。若い水夫が、顫え声で、
「人違いだろう?」
「いや、人違いじゃあねえ。わしは、この根室に出入する男の顔は、今も昔も、一人残らず知っている」丸辰は、立ちあがりながら、「あいつア、確かに北海丸の安吉だ」
「じゃア、生残っていたんか」
「助かって、今頃帰って来たんかな」
 けれどもやがて女は、ものも云わずに、扉口《とぐち》のほうへ馳《か》けだして行った。人々もその後から雪崩《なだれ》を打って押しかけた。霧の戸外へ向った扉《ドア》がサッと開けられると、最初に飛出した女は、仄白くボヤけた向うの街燈の下を抜けて、倉庫の角を波止場の方へ折曲って行った男の影を見た。
「私の勝手にさしといておくれよ」
 女は、雪崩《なだれ》出ようとする男達を振切って、そのままバタバタと影の男を追い出した。
 倉庫の蔭を曲ると、乳色の海霧《ガス》が、磯の香《か》を乗せて激しく吹きつけて来た。男はなおも歩き続けた。幾つかの角を曲って、漁船の波止場に近い鰊《にしん》倉庫の横まで来ると、男はやっと立止って、臆病そうに辺りを見廻し、黙って馳け寄って来た女の方へ振返った。
 それは幽霊でも何でもない、正真正銘の小森安吉だった。霧に濡れてかそれとも潮をかぶったのか、全身濡れ鼠になっていた。女は躍りかかるようにして、抱きついて行った。
 けれども生き帰って来た安吉は、以前の安吉とはまるでガラッと変っていた。短い間にも、女には直ぐにそれがわかった。
「おれが帰って来たことは、誰にも云ってくれるな」
 とにかく落付かないから家《うち》へ這入ろう――女はそう云ってすすめるのだが、安吉は、再び辺りをきょろきょろと見廻して、
「ダメダメ、おれは狙われてるんだ。家なんか、帰れるものか」
 そして妻の肩を両手でかかえるようにさすりながら、声を改めて、
「時坊《ときぼう》は、大きくなったろうな?」
「そりゃお前さん……だが、いったい誰に狙われてるんだよ」
 しかし安吉は、それには答えもしないで、
「ああ時坊に逢わしてくれ。おれは、むしょうに子供に逢いたいんだ」と再びおびえたように辺りを見廻し、「家へはとても帰れない。ここに隠れてるから、ここまで、子供を連れて来てくれんか。それから、一緒に逃げてくれ」
 妻が言葉も継げずに、呆気《あっけ》にとられてためらっていると、安吉はかぶせるように続けた。
「とてつもない、恐ろしい陰謀なんだ。おれはもう、海を見るのさえ恐ろしくなった。……こうしてるのも、やりきれん。おい、早く逃げ仕度をして、時坊を連れて来てくれ。わけは、それからゆっくり話す」
 北海丸と一緒に海の底へ沈み込んで、死んでしまったと思われていた夫の安吉が、全く不意に帰って来た。そして、どこをどんなにして一年を過して来たのか、何者かを激しく恐れながら、子供を連れて一緒に逃げてくれと云う。驚きと喜びと、不安の一度に押寄せた思いで、たった今まで沈滞した諦めの中に暮していた女は、激しい動揺とためらいに突落されたのだった。
 けれども、やがて女は決心したように夫の側《そば》を離れると、云われるままに町外れの、小さな二階借の自宅へ引返して来た。そして半ば夢見るような気持で、まだろくに歩けもしない子供を背負ったり、いつも子供を預って貰う階下《した》の小母《おば》さんに、それとない別れを告げたりするうちに、少しずつ事態が呑み込めるようになって来た。
 いままでは、まるで家庭など眼中になく、勝手放題に振舞っていた強がり屋の安吉が、どんな恐ろしい目に合ったのか、突然帰って来ると妻子を連れて逃げ出そうと云う。そこには、よくよくの事情があるに違いない。沈没船から生帰って来たと云うだけでも、それはもう大きな秘密だ。――考えるにつれて、女には夫の立場が異様に切迫したものに思われて来て、身の廻りの品を纏めると、そのままそそくさと霧の波止場へ急いだ。
 歩きながらも、安吉を包む秘密への不審と不安は、追々《おいおい》高まって、安吉の云った「とてつもない恐ろしい陰謀」が影もなく浮上ったかと思うと、丸辰の「鯨の祟り」が思い出されたりして、それらが一緒になって、今度は今のままの安吉の体へ、直接の不安を覚えるように
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