でかかえるようにさすりながら、声を改めて、
「時坊《ときぼう》は、大きくなったろうな?」
「そりゃお前さん……だが、いったい誰に狙われてるんだよ」
 しかし安吉は、それには答えもしないで、
「ああ時坊に逢わしてくれ。おれは、むしょうに子供に逢いたいんだ」と再びおびえたように辺りを見廻し、「家へはとても帰れない。ここに隠れてるから、ここまで、子供を連れて来てくれんか。それから、一緒に逃げてくれ」
 妻が言葉も継げずに、呆気《あっけ》にとられてためらっていると、安吉はかぶせるように続けた。
「とてつもない、恐ろしい陰謀なんだ。おれはもう、海を見るのさえ恐ろしくなった。……こうしてるのも、やりきれん。おい、早く逃げ仕度をして、時坊を連れて来てくれ。わけは、それからゆっくり話す」
 北海丸と一緒に海の底へ沈み込んで、死んでしまったと思われていた夫の安吉が、全く不意に帰って来た。そして、どこをどんなにして一年を過して来たのか、何者かを激しく恐れながら、子供を連れて一緒に逃げてくれと云う。驚きと喜びと、不安の一度に押寄せた思いで、たった今まで沈滞した諦めの中に暮していた女は、激しい動揺とためらいに突落されたのだった。
 けれども、やがて女は決心したように夫の側《そば》を離れると、云われるままに町外れの、小さな二階借の自宅へ引返して来た。そして半ば夢見るような気持で、まだろくに歩けもしない子供を背負ったり、いつも子供を預って貰う階下《した》の小母《おば》さんに、それとない別れを告げたりするうちに、少しずつ事態が呑み込めるようになって来た。
 いままでは、まるで家庭など眼中になく、勝手放題に振舞っていた強がり屋の安吉が、どんな恐ろしい目に合ったのか、突然帰って来ると妻子を連れて逃げ出そうと云う。そこには、よくよくの事情があるに違いない。沈没船から生帰って来たと云うだけでも、それはもう大きな秘密だ。――考えるにつれて、女には夫の立場が異様に切迫したものに思われて来て、身の廻りの品を纏めると、そのままそそくさと霧の波止場へ急いだ。
 歩きながらも、安吉を包む秘密への不審と不安は、追々《おいおい》高まって、安吉の云った「とてつもない恐ろしい陰謀」が影もなく浮上ったかと思うと、丸辰の「鯨の祟り」が思い出されたりして、それらが一緒になって、今度は今のままの安吉の体へ、直接の不安を覚えるようになって来た。
 しかし、その不安は、全く適中していた。恰度その頃鰊倉庫の横丁では、とり返しのつかない恐ろしい惨劇が持上っていたのだ。
 酒場《みせ》の前を避けるようにして、霧次《ろじ》伝いにさっきの場所まで引返して来た女は、そこの街燈に照された薄暗《うすやみ》の中で、倉庫の板壁へ宮守《やもり》のようにへばりついたまま、血にまみれた安吉の無残な姿をみつけたのだった。鯨のとどめを刺すに使う捕鯨用の鋭い大きな手銛で、虫針に刺された標本箱の蛾のように板壁へ釘づけにされた安吉へ、女が寄添うと、断末魔の息の下から必死の声を振絞って、
「く、く、釧路丸の……」
 とそこまで呻いて、あとは血だらけの右手を振上げながら、眼の前の羽目板へ、黒光りのする血文字で、
 ――船長《マスター》だ――
 と、喘ぎ喘ぎのたくらして行った。そしてそのまま、ガックリなってしまった。

          三

 根室の水上署員が、弥次馬達を押分けるようにして惨劇のその場に駈けつけたのは、それから三十分もあとの事だった。
 倉庫の横の薄暗い現場の露次には、激しい格闘の後が残されていた。板壁に釘づけにされるまでに、もう安吉はかなりの苦闘を続けたと見えて、全身一面に、同じ手銛の突創《つききず》がいくつも残されていた。激しい手傷を受けて、思わず板壁によろめきかかった安吉に、背後から最後のとどめを突刺して、そのまま犯人は逃げ去ったものらしい。
 取外された屍体は、直ぐに検屍官の手にうつされたが、しかしこれと云う持物はなにもなく、安吉がどこをどんなにして歩き廻っていたか、恐ろしい秘密を物語るような手掛は、一つも残っていなかった。
 今度こそ本当に未亡人になった女と、丸辰の親爺、それから最初酒場の扉口《とぐち》に安吉を見たマドロス達は、その場で一応の取調べを受けた。丸辰は、自分の見ただけのことを勝手に喋舌《しゃべ》って、それから先が判らなくなると、「鯨の祟り」を持出した。そいつの尻馬に乗ってマドロス達は、同じように勝手な憶測ばかり撒き散らして、なんの役にも立たなかった。しかし安吉の妻の陳述によって、その不満は半ば拭われ、警官達には、事件の外貌だけがあらまし呑み込めて来た。
 重なる異変に気も心もすっかり転倒しつくした安吉の妻は、夢うつつで後さきもなく、夫の断末魔の有様を述べて行ったが、述べ進むにつれて少しずつ気持が
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