れ拒んだ。もっともそれでなくても、鯨類の保護のために、仔鯨を撃つことは法律を以って固く禁ぜられていた。親鯨でさえもその濫獲を防ぐためには、政府は捕鯨船の建造を、全国で三十艘以内に制限しているのだった。しかし、捕鯨能率を高めるために、監視船の眼のとどかぬ沖合で、秘かに仔鯨撃ちも犯す捕鯨船は、時折りあるらしかった。
 根室の岩倉会社には、二艘の持船が許されていた。北海丸と釧路丸がそれだった。そして海霧《ガス》の霽《は》れた夕方など、択捉《えとろふ》島の沖あたりで、夥しい海豚《いるか》の群に啄《も》まれながら浮流《うきなが》されて行く仔鯨の屍体を、うっかり発見《みつ》けたりする千島帰りの漁船があった。丸辰流に言えば、その鯨の祟りを受けて、北海丸は沈没した。そしてもう、一年の月日が流れてしまった。岩倉会社は、損害にもひるまず、直ぐに新らしい第二の北海丸を建造して、張り切った活躍を続けているのだった。
 丸辰の親爺は、酒に酔っぱらった砲手の未亡人が、客を相手に愚痴話をはじめだすと、きまって鯨の祟り――を持出す。そして話がそこまで来ると、殆んど船乗りばかりのその座は、妙に白けて、皆ないやアな顔をして滅入《めい》り込むのが常だった。
 今夜も、とどのつまり、それがやって来た。
 海から吹きつける海霧《ガス》が、根室の町を乳色に冷くボカして、酒場の硝子《ガラス》窓には霜のような水蒸気が、浮出していた。真赤に焼けたストーブを取巻いて、人々は思い出したように酒を飲んだ。冷くさめ切った酒だった。
 外には薄寒い風が、ヒューヒューと電線を鳴らして、夜漁の船の発動機がタンタンタンタンと聞えていた。なぜか気味の悪いほど、静かな海霧《ガス》の夜だった。人々は黙りこくって、苦い酒を飲み続けた。
 けれども、そうした白けきった淋しさは、永くは続かなかった。
 全く不意の出来事であったが、いままで酒臭い溜息をもらしながら、ボンヤリ人々の顔を見廻していた砲手の未亡人が、突然ジャリンと激しく器物を撒《ま》き散らしながら、テーブルを押し傾《かし》げるようにして立ちあがった。顔色は土のように青《あお》褪め、恐怖に見開らかれたその眼は、焼きつくように表の扉口《ドア》へ注がれている。
 水蒸気に濡れたそこの硝子扉《ガラスど》には、幽霊の影がうつっていた。――ゴム引きの防水コートの襟を立てて、同じ防水帽を深々とかむった影のような男が、外から硝子扉《ガラスど》にぴったり寄添って、蓬々《ぼうぼう》に伸びあがった髯面を突出しながら、憔悴しきった金壷眼《かなつぼまなこ》で、きょろきょろとおびえるように屋内を見廻していたが、直ぐに立上った女の視線にぶつかると、こっそり眼配《めくばせ》でもするように頤《あご》をしゃくって、そのまま外の闇へ消えてしまった。
 それは沈没船北海丸の砲手、死んだ筈の小森安吉だった。

          二

 酒場の中では、人々が総立ちになった。
「お前の、亭主じゃないか」
 丸辰が、すっかり酔のさめた調子で云った。若い水夫が、顫え声で、
「人違いだろう?」
「いや、人違いじゃあねえ。わしは、この根室に出入する男の顔は、今も昔も、一人残らず知っている」丸辰は、立ちあがりながら、「あいつア、確かに北海丸の安吉だ」
「じゃア、生残っていたんか」
「助かって、今頃帰って来たんかな」
 けれどもやがて女は、ものも云わずに、扉口《とぐち》のほうへ馳《か》けだして行った。人々もその後から雪崩《なだれ》を打って押しかけた。霧の戸外へ向った扉《ドア》がサッと開けられると、最初に飛出した女は、仄白くボヤけた向うの街燈の下を抜けて、倉庫の角を波止場の方へ折曲って行った男の影を見た。
「私の勝手にさしといておくれよ」
 女は、雪崩《なだれ》出ようとする男達を振切って、そのままバタバタと影の男を追い出した。
 倉庫の蔭を曲ると、乳色の海霧《ガス》が、磯の香《か》を乗せて激しく吹きつけて来た。男はなおも歩き続けた。幾つかの角を曲って、漁船の波止場に近い鰊《にしん》倉庫の横まで来ると、男はやっと立止って、臆病そうに辺りを見廻し、黙って馳け寄って来た女の方へ振返った。
 それは幽霊でも何でもない、正真正銘の小森安吉だった。霧に濡れてかそれとも潮をかぶったのか、全身濡れ鼠になっていた。女は躍りかかるようにして、抱きついて行った。
 けれども生き帰って来た安吉は、以前の安吉とはまるでガラッと変っていた。短い間にも、女には直ぐにそれがわかった。
「おれが帰って来たことは、誰にも云ってくれるな」
 とにかく落付かないから家《うち》へ這入ろう――女はそう云ってすすめるのだが、安吉は、再び辺りをきょろきょろと見廻して、
「ダメダメ、おれは狙われてるんだ。家なんか、帰れるものか」
 そして妻の肩を両手
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