落付いて来ると、最初生き帰って来た夫の何者かを恐れているらしい不可解な態度や、あわただしい自分の逃げ仕度など、繰《たぐ》り出すようにしながら、ともかくも首尾を通して説明することが出来るようになって来た。
やがて、根室の町から港へかけて、海霧《ガス》に包まれた闇の中に、非常線が張られて行った。
安吉の告げ残した「釧路丸」と云えば、同じ岩倉会社の姉妹船で、北海丸が去年の秋に沈没した折、いち早く救助に駈けつけた捕鯨船ではないか。その船の船長が、安吉の殺害犯人なのだ。手配は直ぐに行届いて、峻厳な調査がはじめられた。
すると、真ッ先に海員紹介所から、耳よりな報告がはいった。
それによると、恰度惨劇の起った時刻の直後に、灰色の大きなオーバーを着た恰幅のいい船長《マスター》級の男が、砲手の募集にやって来たが、時間外で合宿所のほうへ廻ると、そこにゴロゴロしていた失業海員の中から、砲手を一人雇って行ったと云うのだ。その船長《マスター》は、なにか事ありげに落付きがなく、顔を隠すようにしていたが、玄関口で雇入れの契約中を立聞きした一人のマドロスは、乗込船の名を、確かに釧路丸と聞いた。
そこで、波止場の伝馬船が叩き起されて、片ッ端から虱潰《しらみつぶ》しに調べられた。けれども、新しい砲手を雇った船長《マスター》は、まだ陸地にうろついているのか、それとも自船の伝馬で往復したのか、それらしい客を乗せて出た伝馬は一艘もいなかった、しかし、その調べのお蔭で、もう一つの新らしい報告が齎《もた》らされた。
それは、宵の口に帰港した千島帰りの一トロール船が、大きなうねりに揺られながら、海霧《ガス》の深い沖合に錨《いかり》をおろしている釧路丸を見たと云う。
水上署の活動は、俄然活気づいて来た。
齎らされた幾つかの報告を組合して、小森安吉を殺した釧路丸の船長は、海員合宿所から一人の砲手を雇うと、早くも自船の伝馬船に乗って、沖合に待たしてあった釧路丸へ引挙げたことが判って来た。
執拗な海霧《ガス》を突破って、水上署のモーターは、けたたましい爆音を残しながら闇の沖合へ消えて行った。
けれども、追々に遠去かって行ったその爆音は、どうしたことか十分もすると、再びドドドドドド……と鈍く澱《よど》んだ空気を顫わして、戻り高まって来た。と思うと、今度は右手の沖合へ、仄明くサーチライトの光芒《ひかり》をひらめかして、大きく円を描きながら消え去って行った。消え去って行ったのだがやがてまた今度は左の方に舞い戻り、舞い戻ったかと思うと戻り詰めずに再び沖合へ……
釧路丸は、もうとっくの昔に錨を抜いていたのだ。
四
「おい、美代《みよ》公。元気を出せよ」
翌《あく》る日の午下《ひるさが》り。夜でさえまともには見られない疲れ切ったその酒場へ、のっそりとやって来た丸辰の親爺は、そこの片隅で、睡《ね》不足の眼を赤く濁らせ、前をはだけて子供に乳を飲ませながらしょげ込んでいた安吉の妻へ、そう云って笑いながら声をかけた。
「まア、悪い夢でも見たと思って、諦めるんだぜ」
けれども、女が黙り込んでそれに答えないと、いままでカウンターに肱を突いて、女と話し込んでいたらしい酒場《みせ》の亭主のほうへ、向き直りながら話しかけた。
「昨夜《ゆんべ》の、水上署の大|縮尻《しくじり》を、見ていたかい。沖でグルグルどうどうめぐりよ。見てるほうで気が揉めたくらいだった。……いやしかし、どうもこいつア、思ったよりも大きな事件になるらしいぜ」
「いったい、どうなったんかね?」
亭主が乗出して来ると、丸辰は例のガタ椅子を引寄せて腰掛けながら、
「まんまと釧路丸に逃げられて、今度は、各地の監視船へ電信を打ったんだ。つまり、みつけ次第釧路丸をひっつかまえるように、頼んだわけさ」
「ほウ、水上署から、水産局の監視船へ、事件が移牒《うつ》されたってわけだね?」
亭主が不精髯をなで廻した。
「うン、まアそんなこったろ……だが、なんしろ海は広いんだから、まだみつからない……ところが、一方そうして監視船に海のほうを頼んだ警察は、それから直ぐに、岩倉さんの事務所を叩き起したんだ。ところが、宿直の若僧が寝呆けていてサッパリはか[#「はか」に傍点]が行かないと、業を煮やして、今度は署長が自身乗り出して、社長邸へ乗り込んで、岩倉さんにジカに面会を申込んだわけさ……ここまでは、まずいい。ところがここから先が、面倒なことになったんだ。と云うのは、なんでも岩倉の大将、ことが面倒だとでも察したのか、頭が痛むとかなんとか云って、逃げたがったんだそうだ。が、まアしかし、結局|行会《ゆきあ》って、署長から、これこれ云々《しかじか》と一部始終を聞き終ると、どうしたことかサッと顔色を変えて、なんだか妙にうろたえながら
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