った影のような男が、外から硝子扉《ガラスど》にぴったり寄添って、蓬々《ぼうぼう》に伸びあがった髯面を突出しながら、憔悴しきった金壷眼《かなつぼまなこ》で、きょろきょろとおびえるように屋内を見廻していたが、直ぐに立上った女の視線にぶつかると、こっそり眼配《めくばせ》でもするように頤《あご》をしゃくって、そのまま外の闇へ消えてしまった。
 それは沈没船北海丸の砲手、死んだ筈の小森安吉だった。

          二

 酒場の中では、人々が総立ちになった。
「お前の、亭主じゃないか」
 丸辰が、すっかり酔のさめた調子で云った。若い水夫が、顫え声で、
「人違いだろう?」
「いや、人違いじゃあねえ。わしは、この根室に出入する男の顔は、今も昔も、一人残らず知っている」丸辰は、立ちあがりながら、「あいつア、確かに北海丸の安吉だ」
「じゃア、生残っていたんか」
「助かって、今頃帰って来たんかな」
 けれどもやがて女は、ものも云わずに、扉口《とぐち》のほうへ馳《か》けだして行った。人々もその後から雪崩《なだれ》を打って押しかけた。霧の戸外へ向った扉《ドア》がサッと開けられると、最初に飛出した女は、仄白くボヤけた向うの街燈の下を抜けて、倉庫の角を波止場の方へ折曲って行った男の影を見た。
「私の勝手にさしといておくれよ」
 女は、雪崩《なだれ》出ようとする男達を振切って、そのままバタバタと影の男を追い出した。
 倉庫の蔭を曲ると、乳色の海霧《ガス》が、磯の香《か》を乗せて激しく吹きつけて来た。男はなおも歩き続けた。幾つかの角を曲って、漁船の波止場に近い鰊《にしん》倉庫の横まで来ると、男はやっと立止って、臆病そうに辺りを見廻し、黙って馳け寄って来た女の方へ振返った。
 それは幽霊でも何でもない、正真正銘の小森安吉だった。霧に濡れてかそれとも潮をかぶったのか、全身濡れ鼠になっていた。女は躍りかかるようにして、抱きついて行った。
 けれども生き帰って来た安吉は、以前の安吉とはまるでガラッと変っていた。短い間にも、女には直ぐにそれがわかった。
「おれが帰って来たことは、誰にも云ってくれるな」
 とにかく落付かないから家《うち》へ這入ろう――女はそう云ってすすめるのだが、安吉は、再び辺りをきょろきょろと見廻して、
「ダメダメ、おれは狙われてるんだ。家なんか、帰れるものか」
 そして妻の肩を両手
前へ 次へ
全16ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大阪 圭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング