た。釧路丸以外にも、附近を航行していた汽船の中には、その信号を聞きつけた貨物船が二艘あった。しかし、海霧《ガス》に包まれた遭難箇所は、水深も大きく、潮流も激しく、荒れ果てていて到底近寄ることは出来なかった。
 小船の北海丸は、浸水が早く沈没は急激だった。海難救助《サルベージ》協会の救難船が、現場に馳《は》せつけた頃には、もう北海丸の船影はなく、炭塵や油の夥しく漂った海面には、最初にかけつけた釧路丸が、激浪に揉まれながら為《な》す術《すべ》もなく彷徨《さまよ》っているばかりだった。
 S・O・Sによれば、遭難の原因は衝突でもなければ、むろん坐礁、接触なぞでもなかった。ただ無暗と浸水が烈しく、急激な傾斜が続いて、そのまま沈没してしまった。しかし、まだ老朽船と云うほどでもない北海丸が、秋口の時化《しけ》とは云え、何故そんなに激しい浸水に見舞われたのか、それは当の沈没船から発せられた信号によってさえも、聞きとることは出来なかった。捜査は、救難船と釧路丸の手によって続けられた。けれども時化《しけ》があがって数日たっても、北海丸は発見されなかった。
 それから、もう一年の月日が流れている。
 根室の港には、やがてまた押し迫って来る結氷期を前にして、漁期末の慌しさが訪れていた。
「どかんと一発撃てば、それでもう、三十円丸儲けさ」
 夜になると底冷えがするので、もう小さな達磨《だるま》ストーブを入れた酒場では、今夜もまた女の愚痴話がはじまっていた。
「人間なんて、あてになるもんじゃないよ……ね、そうじゃない? 丸辰《まるたつ》のとっつあん……」
「みんな、鯨の祟《たた》りだよ」
 丸辰と呼ばれた沖仲士らしい老水夫は、酒に焼けた目尻をものうげに起しながら、人々を見廻わすようにして云った。
「鯨の祟りだよ。仔鯨を撃つから、いけないんだ」
「とっつあん。また、ノルウェー人かい?」
 トロール漁船の水夫らしい男が、ヤジるように云った。
 鯨の祟り――しかしそれは、一人丸辰の親爺だけではなく、北海丸の沈没の原因について、根室港の比較的歳取った人々の間に、もうその当時から交されていた一つの風説だった。まだ日本の捕鯨船にノルウェー人の砲手達が雇われていた頃から、その人達によって云い伝えられた伝説だった。
「仔鯨を撃つ捕鯨船には、必らず祟りがある」
 宗教に凝った異邦人達は、そう云って仔鯨撃ちを恐
前へ 次へ
全16ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大阪 圭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング