石塀幽霊
大阪圭吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)秋森《あきもり》家

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)六|間《けん》道路

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》
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          一

 秋森《あきもり》家というのは、吉田雄太郎《よしだゆうたろう》君のいるN町のアパートのすぐ西隣にある相当に宏《ひろ》い南向きの屋敷であるが、それは随分と古めかしいもので処まんだらにウメノキゴケの生えた灰色の甍《いらか》は、アパートのどの窓からも殆んど覗《うかが》う事の出来ない程に鬱蒼たる櫟《くぬぎ》や赤樫《あかがし》の雑木林にむっちりと包まれ、そしてその古屋敷の周囲は、ここばかりは今年の冬に新しく改修されたたっぷり[#「たっぷり」に傍点]一丈はあろうと思われる高い頑丈な石塀にケバケバしくとりまかれていた。屋敷の表はアパートの前を東西に通ずる閑静な六|間《けん》道路を隔てて約三百坪程の東西に細長い空地があり、雑草に荒らされたその空地の南は、白い石を切り断ったような十数丈の断崖になっていた。
 吉田雄太郎君は此処へ越して来た時から、この秋森家の古屋敷に何故か軽い興味を覚えていた。雄太郎君の抱いた興味というのは、只この屋敷の外貌についてだけではなく、主としてこの古屋敷に住む秋森家の家族を中心としてのものであった。全く、雄太郎君がこのアパートへ越して来てからもう殆んど半歳になるのだが、時たま裏通りに面した石塀の西の端にある勝手口で女中らしい若い女を見かけた以外には、まだ一度も秋森家の家族らしき者を見たこともなければ、またその古びた高い木の門の開かれたことをさえ見たことはなかった。要するに秋森家の家族というのは陰鬱で交際がなく、雄太郎君の考えに従えば、まるで世間から忘れられたように、この山の手の静かな丘の上に置き捨てられていたのだった。尤も時たま耳にした人の噂によれば、なんでもこの秋森家の主人というのはもう六十を越した老人で、家族と云えばこの老主人とまだ独身でいる二人の息子との三人で、これに中年の差配人とその妻の家政婦、並びに一二名の女中を加えたものがこの宏い屋敷の中で暮しているということだった。が、そんな報告をした人でさえ、その老主人と二人の息子を見たことはないと云っている。ところが、突然この秋森家を舞台にして、至極不可解きわまる奇怪な事件が持ちあがった。そしてふとしたことから雄太郎君は、身を以てその渦中に巻きこまれてしまったのだ。
 それは蒸しかえるような真夏の或る日曜日のことだった。午後の二時半に、一寸した要件で国元への手紙を書き終えた雄太郎君は、恰度この時刻にきまっていつものように郵便屋が、アパートの前のポストへ第二回目の廻集に来ることを思い出して、アパートを出て行った。習慣というものは恐ろしいもので、雄太郎君の予想通り実直な老配達夫は、もうポストの前へ屈みこんで取出口にガチャガチャと鍵をあてがっていた。そこで雄太郎君は彼の側に歩みよって一寸挨拶をし、郵便物を渡して、さてそれから、じっとり汗に濡れた老配達夫の皺の多い横顔を見ながら、暑いなア、と思った。――断って置くが、この附近は山の手のうちでも殊に閑静な地帯で、平常でも余り人通りはないのであるが特にその日は暑かった為めか、表の六間道路は真っ昼間だというのに猫の子一匹も通らず、さんさんと降りそそぐ白日の下にまるで水を打ったような静けさであった。その静寂のなかで不意に惨劇がもちあがったのだ。
 始め、雄太郎君と集配人の二人は、西隣の秋森家の表門の方角に当って低い鋭い得《え》も云われぬ叫び声を耳にした。期せずして二人はその方角へ視線を投げた。すると二人の立っているポストの地点から約三十間ほど隔った秋森家の表門のすぐ前を、なにか黒い大きな塊を飛び越えるようにして、白い浴衣を着た二人の男が、横に並んで、高い頑丈な石塀沿いに雄太郎君達の立っているのと反対の方向へ、互に体をすりつけんばかりにして転がるように馳け出していった。が、次の瞬間もう二人の姿は、道路と共に緩やかな弧を描いて北側へカーブしている、秋森家の長い石塀の蔭に隠れて、そのまま見えなくなってしまった。――全く不意のことではあったし、約三十間も離れていたので、その二人がどんな男か知るよしもなかったが、二人とも全然同じような体格で、同じような白い浴衣に黒い兵児《へこ》帯を締めていたことは確かだ。雄太郎君は軽い眩暈《めまい》を覚えて思わず側のポストへよろけかかった。が、カンカンに灼けついていたポストの鉄の肌にハッとなって気をとりなおした時には、もう老配達夫は秋森家の表門へ向って馳け出していた。雄太郎君も直ぐにその後を追った。けれども二人が表門に達した時にはもう二人の怪しげな男の姿はどこにも見当らなかった。黒い大きな塊に見えたのは案にたがわず這うようにして俯向きに崩打《たお》れたまま虫の息になっている被害者の姿だった。見るからに頸の白い中年の婦人だ。鋪道の上にはもう赤いものが流れ始めている。郵便屋はすっかり狼狽し屈み腰になって女を抱きおこしながら雄太郎君へあちらを追え! と顎をしゃく[#「しゃく」に傍点]ってみせた。
 秋森家の表を緩やかな弧を描いて北側へカーブしている一本道の六間道路は、秋森家の石塀の西端からその石塀と共にグッと北側へ折曲っている。雄太郎君は夢中でその右曲りの角へ馳けつけると、体を躍らすようにして向うの長い道路をのぞき込んだ。その道路の右側は秋森家の長い石塀だ。左側は某男爵邸の裏に当る同じような長い高い煉瓦塀だ。恐らく隠れ場所とてない一本道――。だが、犯人はいない!
 犯人の代りに通りの向うから、一見何処かの外交員らしい洋服の男がたった一人、手に黒革のカバンを提げてやって来る。雄太郎君は馳けよると、すかさず訊ねた。
「いまこの道で、白い浴衣を着た二人の男に逢いませんでしたか?」
「………」男は呆気にとられ瞬間黙ったまま立竦《たちすく》んでいたが、意外にも、すぐに強く首を横に振りながら、
「そんな男は見ませんでした。……なにか、あったんですか?」
「そいつア困った」と雄太郎君は明かにどぎまぎしながら投げ出すように、「いま、この秋森さんの門前で人殺し……」
「なんですって!」男は見る見る顔色を変えて「人殺しですって! いったい、誰が殺《や》られたんです?」と引返す雄太郎君に並んで馳けだしながら、とぎれとぎれに云った。
「私は、この秋森の差配人で、戸川弥市《とがわやいち》って者です」
 けれどもすぐに石塀を折曲って秋森家の門前が見えると、二人はそのまま黙って馳け続けた。そして間もなく郵便屋に抱き起こされて胸の傷口へハンカチを押当られたままもうガックリなっている女を見ると、洋服の男は飛びかかるようにして、
「あ、そめ子!」
 と、そしてものに憑かれたように辺りをキョロキョロ見廻しながら、
「……こ、これは私の家内です……」
 そう云ってべったり坐り込んで了った。
 曲角《まがりかど》の向うから、気狂いじみたチンドン屋の馬鹿騒ぎが、チチチンチチチンと聞えて来た。


          二

 それから数分の後。N町の交番だ。
 新米の蜂須賀《はちすか》巡査は、炎熱の中に睡魔と戦いながら、流石《さすが》にボンヤリ立っていた。
 そこへ一人のチンドン屋が、背中へ「カフェー・ルパン」などと書いた看板を背負い、腹の上に鐘や太鼓を抱えたまま息急《いきせき》切って馳け込んで来ると、いま秋森家の前を通りかかったところが、恐ろしい殺人事件が起きあがっていた事、死人の側には三人の男がついていたが、ひどく狼狽している様子だったので、取りあえず自分が知らせに来た事、などを手短に喋り立てた。殺人事件! 蜂須賀巡査は電気に打たれたようにキッとなった。時計を見る。三時十分前だ。取りあえず所轄署へ電話で報告をすると、そのまま大急ぎでチンドン屋を従えて馳けだした。
 現場には、もう例の三人の他に、秋森家の女中やその他数人の弥次馬が集っていた。蜂須賀巡査の顔を見ると、いままで弥次馬共を制していた雄太郎君が進み出て、被害者の倒れていた地点から約五間程西へ隔った塀沿いの路上から拾い上げたと云う、血にまみれたひとふりの短刀を提供した。
 蜂須賀巡査は早速証人の下調べに移った。
「……じゃあ、つまりなんだね……吉田君がこちらから、その浴衣を着た二人の男を追って行く。向うから戸川さんがやって来る。ふむ、つまり、挟撃《はさみう》ちだ。而《しか》も道路は、一本道!……ところが、犯人はいない?……すると……」
 蜂須賀巡査は眉根に皺を寄せ下唇を噛みながら、道路の長さを追い始めた。が、やがてその視線が、秋森家の石塀の、曲角に近い西の端に切抜かれた勝手口の小門にぶつかると、じっと動かなくなってしまった。が、間もなく振り返ると、微笑を浮べながら二人の証人を等分に見較べるようにした。勿論雄太郎君も戸川差配人も、すぐに蜂須賀巡査の意中を悟って大きく頷いた。
「困ったことですが」と差配人の戸川が顔を曇らしながら云った。「どうも其処より他に抜け口はございません」
 そこで蜂須賀巡査は意気込んで馳けだし、勝手口の扉《と》をあけて屋敷の中へ這入って行った。が、やがてその扉口《とぐち》から顔を出すと、勝誇ったように云った。
「ふむ。図星だ。足跡がある!」
 恰度この時、司法主任を先頭にして物々しい警察官の一隊が到着した。蜂須賀巡査は、雄太郎君の提供した証拠物件に添えて、下調べの顛末を誇らしげに報告した。そして間もなく証人の再度の訊問が始められた。被害者は秋森家の家政婦で、差配人戸川弥市の妻そめ子。兇行に関しては雄太郎君と郵便屋との二人の目撃者があったし、死因が単純明瞭で一目刺殺である事は疑いない事実と判定された為め、女の死体は間もなく却下になった。そして雄太郎君と郵便屋と戸川差配人との三人の証言の結果、司法主任は蜂須賀巡査の発見した例の足跡の調査に移った。
 まず勝手門を開けて屋敷内へ這入る。五間程隔って正面に台所口がある。左は折曲った石塀の内側。右は宏い前庭の植込を透《とお》して、向うに母屋が見える。日中の暑さで水を撒くと見えて、地面は一様に僅かながら湿りを含んでいる。勝手門と台所との間には、御用聞《ごようきき》やこの家の使用人達のものであろう、靴跡やフェルト草履《ぞうり》の跡が重なるようにしてついている。蜂須賀巡査の発見《みつ》けた足跡はこの勝手門からすぐに右へ折れて、前庭の植込から母屋へ続く地面の上に点々と続いている。庭下駄の跡だ。非常に沢山ついている。
 調査の結果、大体その庭下駄の跡は、四本の線をなしている事が判った。つまり、二人の人間が、庭下駄を履いてこの間を往復したことになる。すると、外から這入って、外へ帰ったのか? 内から出て内へ帰ったのか? けれどもこのような疑問は、庭下駄と云う前後の区別のハッキリした特殊な足跡が解いて呉れる。そして間もなく母屋の縁先の沓《くつ》脱ぎで、地面に残された跡とピッタリ一致する二足の庭下駄が発見《みつ》けられた。
 秋森家の家族が怪しい。
 警官達は俄然色めき立った。司法主任は、蜂須賀巡査を足跡の監視に残すと、母屋の縁先へ本部を移して、雄太郎君、郵便屋、戸川差配人の三人立会の下に、いよいよ秋森家の家族の調査にとりかかった。
 老主人の秋森|辰造《たつぞう》は、動くことの出来ない病気で訊問に応じ兼ねると申しでた。そしてその病気については差配人や女中の証言が出たので、司法主任は二人の息子を呼び出した。ところが、出て来た二人の男を一目見た瞬間に、雄太郎君と郵便屋は真っ蒼になった。
 二人の息子は、体格と云い容貌と云いまるで瓜二つで、二人とも同じような白い蚊飛白《かがすり》の浴衣を着、同じような黒い錦紗《きんしゃ》の兵児帯を締めている。名前は宏
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