……せ、せんせいィ……大変だァ……」と四号室から一号室へ、続く廊下を押切って、まだ寝ている母屋のほうへバタバタと駈けこんで行った。
「……大変だ。大変でス。患者がみんな逃げてしまいましたぞォ……」
 間もなく屋内が、吃驚《びっくり》した人の気配で急に騒がしくなった。
「先生はどうしました。先生は?」
「向うの寝室に……早く起して下さい」
「向うの寝室には見えません」
「いらっしゃらない?」
「とにかく、患者が皆逃げちまいました」
「空室には?」
「全部いません」
「先生を起して……」
「その先生が見えません」
 やがて鳥山看護人と赤沢夫人、続いて女中の三人が、しどけない姿で運動場へ飛び出して来た。
 ――大変だ。こうしてはいられない。
 宇吉を先頭にして三人の男女は、早速病院の中から外の雑木林の中まで、眼を血走らせながら手分けで探しはじめた。が、狂人共はいない。そして間もなく人々は、今にも泣きだしそうな顔をして、裏木戸の前へ落集《おちあつま》った。
「……でも、先生は、どうしたんでしょう?」
 女中がおどおどしながら云った。
 物音に驚いた鴉共が、雑木の梢で不吉な声をあげだした。宇吉は膝頭をガクガク顫わしながら戸惑っていたが、不意に屈《かが》みこむと、
「おやッ。こいつァ……?」
 と叫んで前のめりになった。成る程木戸のすぐ内側には、ビール瓶のようなものが微塵に砕けて散らばっている。見れば病舎の便所に備えつけた防臭剤のガラス瓶だ。そしてその附近一帯に、もう乾枯《ひから》びて固くなりかかった赤黒い液体の飛沫《しぶき》が、点々と目につきだした。女中が黄色い声をはりあげた。
「鳥山。なにか引きずった跡じゃない?」
 赤沢夫人の指差す先の地面には、たしかになにか重いものを引きずった跡が、ボンヤリと病舎の方へ続いている。そいつを縫うようにして赤黒い零《しずく》の跡がポタリポタリ……
 三人は声を呑んでまろぶように跡をつけだした。直ぐに板塀に沿って病舎の外れの便所へ来た。床板のないセメント張りの土間だ。だがその土間を覗き込んだ三人は、瞬間アッともギャッとも云いようのない恐怖の叫びをあげて釘づけになってしまった。
 土間一面の血の海で、その血溜りの真ン中へのけぞるように倒れた人は、昨夜のままのパジャマを着た明らかに赤沢院長の無惨な姿だった。血海の中に冷く光っているガラス瓶の欠片《かけら》でつけたものであろう、顔から頭へかけて物凄い掻傷《かききず》が煮凝《にこごり》のような血を吹き、わけても正視に堪えぬのは、前額から頭蓋へかけてバックリ開いた大穴から、なんと脳味噌が抜きとられて頭の中は空っぽだ。とられた脳味噌はどこへ行ったか、辺りには影も形もない……

          二

 急報を受けたM市の警察署から、司法主任を先頭に一隊の警官達が赤沢脳病院に雪崩《なだ》れ込んだのは、それから二十分もあとのことだった。
 司法主任吉岡警部補は、すっかり上《あが》ってしまった鳥山宇吉から一通りの事情を訊きとると、取りあえず部下の警官を八方に走らして、脱走した三人の狂人の捜索逮捕を命じた。
 間もなく検事局の連中がやって来ると、直ちにテキパキした現場の検証や、予審判事の訊問が始まった。宇吉、赤沢夫人、女中の三人は、気も心も転倒したと見えて、最初のうちしどろもどろな陳述で係官を手古摺《てこず》らしたが、それでも段々落つくに従って、赤沢脳病院の現状からあのいまわしい雰囲気、院長の荒《すさ》んだ日常、そして又三人の狂人の特長性癖等に就いて、曲りなりにも問わるるままに答えて行った。
 一方警察医の意見によると、院長の死は午前四時頃と推定され、その時刻には家人はまだ睡《ねむ》っていて、物音なぞは聞かなかったこと。院長はいつも早起きで、寝巻のままで体操や散歩をする習慣であったこと等々も判って来た。
 ひと通りの調査が終ると、検事が司法主任へ云った。
「とにかく犯行の動機は明瞭です。問題は、三人の気狂いの共犯か、それとも三人の内の誰かがやって、あとは扉《と》が開いてるを幸いそれぞれバラバラに飛び出してしまったか、の二つです。ところで、犯人の逮捕に、警官は何名向けてありますか?」
「取りあえず五名向かわしました」
「五名?」と検事は顔を顰《しか》めて、「それで、なんとか情報がありましたか?」
「まだです」
「そうでしょう。五名じゃアとても手不足だ。だいたい逃げ出した気狂いは三人でしょう。それも隠れとるかも判らないし……」
 云いながら検事は、ふと恐ろしい事に気がつくと、みるみる顔を硬張らせながら、あとを続けた。
「そうだ、この場合、捕える捕えないどころの問題じゃアないよ。いや、こいつァ大変なことになる……いいかね、犯人は狂人で三人、それもただの気狂いじゃアなく、突然兇暴
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