火葬場へ行く自動車の行列を眺めたり、電柱の鴉を見詰めたりしながら、絶えず右足の爪先で前の羽目板をトントンと叩く癖を持っていた。この癖は非常に執拗で、だから「トントン」のいつも立っている窓の下の畳の一部は、トントンとやる度毎の足裏の摩擦でガサガサに逆毛《さかげ》立ち、薬研《やげん》のように穿《ほじ》くれていた。
二号室の男は、(断って置くが、患者が少くなってから各室に散在していた三人の狂人は、なにかと看護の便宜上最も母屋に近い、一、二、三号室に纏《まと》めて移され、四号室から残りの十二号室までは全部空室になっていたのだ。)さて二号室は「歌姫」と呼ばれ、いい髯面の男だてらに女の着物を着て可憐なソプラノを張りあげ、発狂当時覚えたものであろう古臭い流行歌《はやりうた》を夜昼なしに唄いつづけては、われとわが手をバチバチ叩いてアンコールへの拍手を送り、送ったかと思うとケタケタと意味もなく笑い出したりした。
次に三号室は「怪我人」と呼ばれ、決してどこも怪我をしているわけではないのだが、自《みず》から大怪我をしたと称して頭から顔いっぱいに繃帯を巻き、絶対安静を要する意味でいつも部屋の中で仰向きに寝てばかりいた。偶々《たまたま》看護人でも近寄ろうものなら大声を上げて喚《わめ》き出す始末で、他人の患部へ手を触れることを烈《はげ》しく拒絶するのだった。けれども流石に院長にだけは神妙に身を委せ、時どき繃帯をとり替えて貰っては辛《かろ》うじて清潔を保っていた。
以上三人の患者達は、どちらかと云えばみんな揃って温和な陽性の方で、赤沢病院が潰《つぶ》れようと潰れまいとそのようなことにはとんとお構いなく、狭い垣の中で毎日それぞれの営みにせっせと励んでいたのだが、それでもだんだん看護が不行届になったり食事の質が落ちて来たりすると、陽気は陽気ながらも一抹の暗影が気力にも顔色にもにじむように浮出して来て、それが常にない院長の不興の嵩《かさ》みにぶつかったりすると、ひどく敏感に卑屈な反映を見せたりして云うに云われぬいやァな空気がだんだん色濃く風のように湧き起っていった。そしてその風は追々に強く烈しく旋風《つむじ》のように捲きあがって、とうとう無惨な赤沢脳病院の最後へ吹き当ってしまったのだ。
それは何故か、朝から火葬場へ通う自動車の行列が頻繁で、絶えず禿山の裾が煙幕のような挨に包まれた、暑苦しい日の朝だった。
老看護人の鳥山宇吉《とりやまうきち》は、いつものように六時に目を醒すと、楊枝《ようじ》を啣《くわ》えながら病舎へ通ずる廊下を歩いて行ったのだが、歩きながら何気なしに運動場の隅にある板塀の裏木戸が開放《あけはな》しになっているのを見ると、ハッとなって立止った。
ここでちょっと説明さして貰うが、赤沢脳病院の敷地は総数五百五十坪で、高い板塀に囲まれた内部には診察室、薬局、院長夫妻その他家人の起居する所謂母家と、くの字に折曲った一棟の病舎が百五十坪程の患者の運動場を中に挟んで三方に建繞《たちめぐ》り、残りの一方が直接板塀にぶつかっていて、板塀の病舎寄りのところに今いった裏木戸が雑木林へ向ってしつらえてあるのだが、むろん狂人の運動場へ直接続く木戸であるから母屋の勝手口なぞと違って表門同様に開放されると云うことは絶対になく、いつも固く錠がおろされている筈だった。もっとも時たま院長がここから裏の雑木林へ朝の散歩に出かけたりすることがあるので、ふと思いついた看護人の鳥山宇吉は、それでは院長が出られたのかなと思いながら取りあえず木戸の方へ歩いて行った。けれどもたとえ院長が散歩に出るにしても大事な木戸を開放しにすると云うことは、少しの間といえども決して許されないことだ。鳥山宇吉はそう思いながら木戸まで来ると、立上って不安そうに塀の外を見廻した。
誰もいない。
雑木の梢《こずえ》で姿の見えない小鳥共が、ピーチクピーチク朝の唄を唄っていた。すると宇吉はふと奇妙なことに気がついて思わず啣《くわ》えた楊枝を手にとった。
いつも朝早くから唄いつづける「歌姫」のソプラノが、そう云えば、今朝は少しも聞えない。「歌姫」のソプラノどころか、あれほど執拗でこ[#「こ」に傍点]うるさい「トントン」さえも、どうしたものか聞えない。ガランとした病舎はひどく神妙に静まり返って、この明るさの中に死んだように不気味な静寂《しじま》を湛えていた。全く静かだ。その静けさの中から、低く遅くだが追々速く高く、宇吉の心臓の脈打つ音だけが聞えて来た。
「……これァ……どえらい事になったゾ!」
思わず呟いた鳥山宇吉は、みるみる顔色を青くしながらそのまま丸くなって病舎の方へ駈け込んで行った。
ガラガラ……バタンバタン……暫く扉《ドア》を開け閉《た》てする音が聞えていたが、やがて悲しげな顫《ふる》える声が「
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