って乗り出すと、
「では申上げますが、実は皆さん……どうもこれは、私の力だけではお役に立たないことになりました。御主人の死は、御自身の過失によるものではありません。一応警察のほうへ、御電話して戴かねばなりません」
 すると今まで私の執拗な質問に、先程から何故か妙に落着のない不安気な様子を見せていた深谷夫人は、どうしたことか急に眼の前の空間を凝視《みつ》めたまま、声も出さずに小さく顫えだした。
 二人の紳士は、さても面倒なことになったと云う様子で、暫く手を揉み合わせていたが、やがて荒々しく室を出ていった。
 居残った私達三人の間には、妙に気不味《きまず》い沈黙がやって来た。が、まもなく夫人は、なにか意を決したように顔をあげると、訴えるような様子で私達へ云った。
「……こんなことにでもならなければ、と思っていたのですが……実は、あの……昨晩から、主人の様子が、いつもと変っていたのでございます」
「と被仰《おっしゃ》ると?」
 私は思わず訊き返した。
「はい、それが、あの……あれはなんでも、ラジオの演芸が始まる頃でしたから、宵の七時半か八時頃と思いますが、その頃から、なにかあったのか急に主人は落着きを失いまして、ひどくそわそわしはじめたのでございます……」
 夫人が一寸言葉を切ると、東屋氏が口を入れた。
「失礼ですが、その頃に御来客はなかったですか?」
「ございませんでしたが」
 夫人が眉を顰《ひそ》めた。すると東屋氏は、扉《ドア》の方を顎で指しながら、
「只今の黒塚さんと被仰《おっしゃ》る方は?」
「あの方のお出《いで》になったのは、九時頃でございます」
「ああ左様《そう》ですか。ではその前、つまり御主人がそのようになられる前に、御主人と話をされたような御来客はなかったですな?」
「ええ、お客様はおろか、昨日《きのう》は郵便物もございませんでした。もっとも、いつだって、此処《ここ》を訪ねて下さる方は、滅多にございませんが――」
 夫人はそう云って先程のあの淋しげな顔色をチラッと見せた。が、すぐに次を続けた。
「……でも確かに、なにかひどく心配なことが起きたに違いございません。それは心配、なぞと云いますよりも、いっそ恐怖とでも申しましょうか……こう、ひどく困った風であちらの別館《はなれ》の方の船室《ケビン》の書斎へ籠りまして、暫く悶えてでもいたようでございましたが、恰度心配してこっそり様子を見に参りました私は、そこで主人の、物に怯えるような独言《ひとりごと》を聞いたのでございます」
「どんなことです?」
 私は思わず急《せ》き込んだ。
「はい、あの、恰度私の聞きましたのは、なんでも主人が、こう卓を叩いて、うわずった声で、『明日《あす》の午后《ひる》だ、明日の午后《ひる》までだ』と、それから低い声で、怯えるように、『きっとここまでやって来る』とそれだけでございますが……それから急に主人は、さもじっとしていられないように立上って室《へや》を出て来たのでございますが、恰度そこに立っていました私を見つけますと、一層不機嫌になりまして、いままでついぞ口にしたこともないような卑しい口調で、お前達の知ったことではないと云うように叱りつけるのでございます……でも先生。まさかこのようなことになろうなぞとは、存じもよりませんでしたので、それに……こんなことを申上げるのもお恥かしい次第でございますが、あのひとは、平常《ふだん》から邪険な、変った人でございますので、逆らわないに限ると思いまして、心ならずもそのまま自室《へや》へ下って、先に寝《やす》んだのでございます……それが、もう今朝は、こんなことになりまして……」
 夫人はここで始めて眼頭に光るものを見せると、堪え兼ねたように面《かお》を伏せてしまった。
 私達は、顔を見合せて、席を外すことにした。
 廊下に出ると、私は東屋氏に寄りそうようにして云った。
「……驚いたねえ……大変なことになったものだ」
 すると東屋氏は、考え深そうに、小声で云った。
「深谷氏の怖れていた奴が、明日の午後、つまり今日、でなくて昨夜やって来たわけだな」とそれから急に改まって、「君、警察の連中が此処へ着くまでには、まだまだ時間があるよ。遠い凸凹《でこぼこ》道だから、三時間は充分かかる。ね、ヨットを見せて貰おう。昨夜深谷氏が乗ったと云うその問題のヨットだ。……僕はなんだか、ひどくこの事件に興味を覚えるよ」
 そう云って彼は、私の肩に手をかけた。
 本来私は、余り好事家《ものずき》のほうではないつもりだが、東屋氏にこう誘われると、どうしたものか理性より先に口のほうが「うん、よし」と返事をしてしまった。
 そこで私達は来合せた洋吉氏に断って玄関《ポーチ》へ出ると、下男に案内を頼み、岬の崖道を下って岩の多い波打際に降り立った。

  
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