部中で一番優れたものだったし、岬の坂道は思ったよりも緩やかだったので、それから十分としないうちに私達は深谷邸の玄関《ポーチ》に辿りついた。折から待ち構えていた下男の手によって、間もなく私達の馬は建物の日蔭の涼しいところへ繋がれ、やがて私達は明るい船室《ケビン》風の応接室で、キャプテン深谷氏の夫人に面会することが出来た。
地味な黒い平服を着て銀のブローチを胸に垂れた深谷夫人は、まだ四十を幾つも越さぬらしい若々しさだ。大粒な黒眼に激しい潤《うるお》いを湛えて、沈鬱な口調で主人の上にふりかかった恐ろしい災禍について語るのだった。
私は夫人の話すところを聞くうちに、先程私の抱いた予感が見事に適中しているのに驚いた。夫人の語るところによれば、キャプテン深谷氏は昨夜《ゆうべ》もあの奇妙な帆走《セイリング》に出掛けたと云う。そして今朝はもう冷たい骸《むくろ》となって附近の海に愛用のヨットと共に漂っていたのだ。私は医師としての職責を果すために、直《ただち》に夫人を促して、別室に置かれた深谷氏の屍体の検査をしなければならなかった。けれどもそこで私は、この事件をかくも異様な恐るべき物語にしてしまったところの驚くべき最初の事実を発見しなければならなかった。
キャプテン深谷氏の屍体は、片足を鱶《ふか》にもぎとられた見るも無残な痛ましいものであったが、検死を進めるに従って、はからずも頭蓋の一部にビール瓶様の兇器で殴りつけられた、明かに他殺の証跡が残されているのを発見した。
私は驚きに顫《ふる》えながらも、つとめて平常を装うようにして、静かに夫人に訊ねた。
「御主人の屍体は、ヨットの中にありましたか?」
すると夫人は私の顔色を見取ってか、急に不審気なおどおどした調子で答えた。
「いいえ、船尾《スターン》の浮袋へ、差通されたように引っかかって、ロープで船に引かれるように水びたし[#「びたし」に傍点]になっておりました」
「ヨットは最初誰が見つけましたか?」
私は再び訊ねた。
「下男の早川《はやかわ》でございます。あれは、白鮫号《しらさめごう》を見つけますと、すぐに泳いで、連れて来てくれました。でも先生、なぜでございます」
「奥さん、これは、大変重大な事件でございます。――御主人は、昨晩何時頃にお出掛けになりましたか?」
「さあ……」と夫人は蒼褪《あおざ》めて小首を傾《かし》げながら不安気な様子で、「いつの間に出掛けましたか……なんでも今朝の七時に主人の寝室に参りました時、始めてそれと気づいたほどでございますので……それに、主人が夜中に帆走《セイリング》をいたすことなぞ、それほど珍らしくもございませんので……」
この時東屋氏が、怺《こら》えかねたように傍らから口を入れた。
「失礼ですが、御主人は、なぜ夜中になぞ帆走《セイリング》をなさるのですか?」
すると夫人は困ったように、
「……あれが、あの人の、道楽なのでございます」
そう云って淋しそうに、笑うとも泣くとも判らぬ表情《かお》をした。
「いつも御主人は、お独りで帆走《セイリング》されるんですか?」
私が訊ねた。
「はい……でも、時々家人を誘いますので、そのような時には、下男に供をさせることにいたしておりました。でも――」
「昨晩は?」
「昨晩は一人でございましたが――」
恰度この時、二人の紳士が室内へはいって来た。私達は満たされぬ思いでひとまず口を噤《つぐ》んだ。深谷夫人は立上って、二人の紳士を私達へ紹介した。
「こちらが、主人の友人で黒塚《くろづか》様と被仰《おっしゃ》います。こちらが、私の実弟で洋吉《ようきち》と申します。どうぞ宜《よろ》しく」
キャプテン深谷氏の友人黒塚と云うのは、見たところまだ四十を五つと越していない、かっぷく[#「かっぷく」に傍点]のいい隆としたアメリカ型の紳士で、夫人の実弟洋吉と云う方は、黒塚氏に較べて体も小さく年も若く色の白い快活そうな青年だ。二人共同じような純白の三つ揃いを着て、どことなく洒脱な風貌の持主だった。
形ばかりの簡単な挨拶を済ますと、私は早速夫人へ、前の続きを切り出した。
「失礼ですが、只今こちらの御家族は?」
「家族、と申してはなんですが、只いまのところ、この方達も加えまして、女中のおきみと下男の早川と、妾《わたし》達夫婦の六人でございます」
私は二人の紳士へ訊ねた。
「失礼ですが、御二人とも永らく御滞在ですか?」
「ええ、いや」と洋吉氏が引きとって答えた。「僕はずっと前からいますが、黒塚さんは、昨夜着かれたばかりです」
「昨夜、ああ左様ですか」と今度は夫人へ、「ではもう一度お訊ねしますが、昨晩御主人は、お独りで帆走《セイリング》に出られたんですな?」
「ええそれはもう」
夫人はそう云って、もどかしそうに私を見た。そこで私は思い切
前へ
次へ
全17ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
大阪 圭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング