二
恰度これから午後にかけて干潮時と見え、艶《つや》のある引潮の小波《さざなみ》が、静かな音を立てて岩の上を渫《さら》っていた。
キャプテン深谷氏のヨット、白鮫号は、まだ檣柱《マスト》も帆布《セイル》も取りつけたままで、船小屋の横の黒い岩の上に横たえてあった。最新式のマルコニー・スループ型で、全長約二十|呎《フィート》、檣柱《マスト》も船体《ハル》も全部白塗りのスマートな三人乗りだ。紅《あか》と白の派手なだんだら縞を染め出した大檣帆《メンスル》の裾は長い檣柱《マスト》の後側から飛び出したトラベラーを滑って、恰度カーテンを拡げたように展ぜられ、船首《プラウ》の三角帆《ジブ》と風流に対して同じ角度を保たせながらロープで止められたままになっている。舵は浮嚢《うきぶくろ》を縛りつけたロープで左寄り十度程の処へ固定され、緑色の海草が、舵板《ラダー》の蝶番へ少しばかり絡みついていた。
東屋氏はロープの端の浮嚢を指差しながら下男に訊ねた。
「御主人の屍体はこの浮嚢へ通されて船尾《スターン》に結びつけてあったんですね?」
「ええ、そうです」
下男が答えた。
東屋氏は頷きながら、
「きっと、鱶《ふか》に片附けさすつもりだったんだな……ところで貴方《あなた》は、昨夜御主人のお供をしなかったのですね?」
「はい、いつでもキャプテンのお召しがない限り、お供はしないことになっております」
この物堅いハッキリした下男の答は、ひどく私を喜ばした。東屋氏はなおも続ける。
「いったいキャプテンは、何《な》にしに夜中になぞ、ヨットへ乗るんですか?」
「ただ帆走《はし》り廻られるだけです。あれが、キャプテンの御趣味なんです」
「結構な御趣味ですね」
東屋氏は皮肉に笑いながら、今度はヨットの中へ乗り込んだ。
「君、警察官が来るまでは、余り現場に触れないほうがいいんだよ」
けれども彼は私の忠告などには耳もかさず、大童《おおわらわ》になってあれこれと船中を物色していたが、やがて檣柱《マスト》の側へ近附くと、大檣帆《メンスル》の裾の一部を指でこすりながら、
「血が着いているよ。やっぱり深谷氏は、このヨットの中で殺されたんだな」
私も東屋氏の言葉につい動かされて、近附いて見た。成る程紅白だんだら縞のところに血痕らしい飛沫の痕がある。東屋氏は一層乗気になってヨットの床を調べはじめたが、やがて今度は狭い棧《さん》の間から、硝子瓶の缺《かけ》らしいものを拾い上げて私に見せた。で私は、
「やっぱり兇器は、ビール瓶だろう」
すると彼は私の肩を叩きながら、
「駄目だよ先生、これをビール瓶だなんて云っちゃあ。こいつは海流瓶だよ、まあビール瓶とよく似ているがね。この中へ葉書やカードを密封して、人目につきやすいように、ほら、外側をこんな風にエナメルで着色して、海流の方向速度等を知るために、海の中へ投げ込む原始的な漂流手段だよ」
そう云って東屋氏は、今度は下男へ、
「この邸には、勿論海流瓶なぞいくつもあったでしょうな?」
「はい。やはりキャプテンの御趣味でして」
けれども東屋氏はそれには答えないで、
「まずこれで、兇器も現場も確かめられたわけだ、時に貴方が、今朝この船に泳ぎ着かれた時に、この他に何か船中に残っていませんでしたか?」
「別に、ございませんでしたが……食卓用の、ソフト・チョコレートのチューブが一つ落ちていました」
「それはどうしました?」
「空でしたから、海の中へ捨ててしまいました」
「捨てた?」
東屋氏は呆れたように苦笑いしながらヨットを降りかけたが、ふと船尾《スターン》寄りの小さな船艙に眼をつけて、再び戻ると、その蓋を開けて中を覗き込んだ。が、やがて身をかがめてその中へぐっと上半身を突込むと、黒い大きな貝をひとつ拾いあげた。
「おや、面白い貝だね」私は覗き込むようにして云った。「恰度鳥の飛んでいるのを横から見たような恰好だね。なんと云う貝だろう?」
「マベ貝だよ。穢《きたな》い貝さ」
東屋氏が云った。すると下男が、
「この附近には、そんなものはいくらもあります」
けれども東屋氏は暫く黙ってマベ貝を弄《いじ》っていたが、やがて面白くもなさそうに再び貝を船艙に戻しながら、
「……どうも確かに、深谷氏と云うのは、変り者だね。よくよく海と縁が深いらしい……」
云いながら彼は、片手を船縁《ふなべり》に掛けるようにしてヨットから飛び降りた。そして今度は白く塗られた船体《ハル》の外側に寄添って、船底の真ん中に縦に突き出した重心板《センター・ボード》の鉛の肌を軽く平手で叩いて見ながら、
「いいヨットだなあ。バランスもよさそうだ」
と急に重心板《センター・ボード》の下端部を、注意深く覗き込みながら、
「こりゃ君、粘土が喰っ附いてるじゃあないかね
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