水線は上下します。そしてもしも海上に泡が浮いていたとすれば、幾度か上下した吃水線のうちの最上の線に沿って、その泡は残ります。つまり空の船が水平に浮かされた場合の標準吃水線以上の位置に、貴方の見られた、第二の別な、泡の吃水線が、何にも乗らなくても、ローリングで作られるのです。成る程あの吹き溜りでは、波はなし、岬の陰で風も少い訳ですから、縦揺《ピッチング》などはしないでしょう。が、ローリングは、多少にかかわらず必ずいたします。ですから支那の司馬温公みたいに、池に舟を浮べて象の重さを計るような具合には行きませんぜ。貴方の一九〇|瓩《キロ》説は、少々早計でしたな」
そう云って黒塚氏は、葉巻《シガー》の吸い差しを銀の灰皿の中へポンと投げこんで、両腕を高く組みあげた。
成る程|流石《さすが》に専門家だけあって、論説もなかなか行き届いている。私は急に心配になって東屋氏の形勢を窺った。ところが東屋氏は一向に平気で、安心したように緊張を解くと、静かに始めた。
「大変有力なお説です。だがここでひとつ、私の素人臭い反駁をさして貰いましょう。でその前にもう一度申上げて置きますが、あの泡の吃水線は、白鮫号の船体《ハル》の周囲、舷側全体に亘って同じ高さを持っているのです。つまり泡の吃水線は船首《プラウ》も船尾《スターン》もどの部分も一様に水平であって、少しの高低もないのです。――で、私の考えとしましては、只今被仰ったローリングの作用には、原則として必ず中心となる軸、と云いますか、まあこの場合白鮫号の船首《プラウ》と船尾《スターン》を結ぶ線、首尾線とか竜骨線とか云う奴ですね、とにかくその軸がある筈です。でもし、貴方の被仰《おっしゃ》ったように、あの泡の吃水線が積載された一九〇|瓩《キロ》強の重量の抵抗によって出来たものではなく、ローリングによって標準吃水線以上の位置に出来たものであるとすれば、そのローリングの軸である船首《プラウ》と船尾《スターン》の吃水線は、左右の舷側の吃水線に較べて、必ず低くなければならない筈です。逆に云えば、両舷側の泡の吃水線は、軸の両端の船首《プラウ》と船尾《スターン》を遠去かるに従って高くなる訳です。ところが、再三申上げた通り、白鮫号の吃水線はどの部分にも高低がなく、一様に水平を保って着いているのです。なんでしたなら、これからひとつ実地検分を願っても好いです。で、この論点からして、失礼ですが、あの泡の跡がローリングによって出来たものであると云うお考えを否定しなければなりません。もっとも私は、白鮫号が決してローリングしなかったとは思いません。現在《いま》残っている泡の線を壊さぬ程度の横揺《ローリング》はあったでしょう。しかし、比較的波の多いこちらの海へ漂流して来る間に、ローリングをして尚且つ泡の線が殆んど全体に亘って無事でいられたのは、その吹き溜りで白鮫号が、すっかり空《から》になり、急に軽くなって、吃水が浅くなったからです」
「……ふん、理窟ですな」
黒塚氏は口惜しそうに呟いた。
「では、先程のお願いを、お聞入れ願いたいと思います」
そこでとうとう、二人は秤に懸ってしまった。
先ず黒塚氏が六六・一〇〇|瓩《キロ》。続いて洋吉氏が四四・五八〇|瓩《キロ》。合計一一〇・六八〇|瓩《キロ》。
「義兄《にい》さんの体重も、お知りになる必要があるんでしょう?」
洋吉氏が云った。
「深谷氏のですか? ええ、是非ひとつ」
「恰度いいですよ。姉の『家庭日記』に、一月毎の記録がある筈ですから」
そう云って洋吉氏は、主館《おもや》へ向って大声で女中に命じた。
間もなく上品な装幀の日記帳が届けられた。洋吉氏は早速|頁《ページ》を捲《め》くる。
「ええと、これは先月……これこれ、恰度三日前のが記入してあります」
「ははあ、五三・三四〇|瓩《キロ》ですね……あ、この三八・二二〇|瓩《キロ》と云うのは? ああ奥さんのですな。いやどうも、有難うございました」
東屋氏の語尾が掠《かす》れるように消えると、瞬間、緊張した、気不味い沈黙がやって来た。
東屋氏はそれとなく身を反らして数字をノートへ記入しながら、素早く引算をするらしい。私も戸外を見るような振りをして、大急ぎで暗算を始める。例の一九〇・九二〇|瓩《キロ》から深谷氏の五三・三四〇|瓩《キロ》を引くと……一三七・五八〇|瓩《キロ》――これが例の深谷氏の二人の同乗者の重量だ。ところが黒塚、洋吉両氏の合計は一一〇・六八〇|瓩《キロ》。同乗者の乗量より二六・九〇〇|瓩《キロ》も少い。――昨夜深谷氏と共にヨットへ乗っていたのは黒塚、洋吉の両氏ではない。私は何故か軽い失望を覚えて東屋氏を見た。すると彼は、黙ってノートをポケットへ仕舞って、静かに外の芝生のほうへ歩き出した。
大分風が強くなったと見え
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