て、相変らず足の速い片雲の影が、芝生の上に慌だしい明暗を残して掠《かす》め去る。――何気ない風を装いながらも、あれで東屋氏も私と同じように、失望したに違いない。が、やがて彼は振り返ると、さも平気な様子で、
「如何ですか黒塚さん。白鮫号の泡の跡を御検分なさいますか?」
「もう、それにも及びますまい」
「そうですか。では、警察官が着くまで、暫く白鮫号を、私達にお貸し下さいませんか?」
「どうぞ御自由に」
すると東屋氏は、私の肩を叩きながら、わざと向うへ聞えるような大声で、
「おい、鳥喰崎へ行って見よう」
四
低気圧がやって来ると見えて、海は思ったよりもうねりが高かった。急に吹き始めた強い南風に先の尖った小さな無数の三角波を乗せて、深谷邸のある岬の方へむくむくと押しかけて行く。堪えられないほど陰気な色の雲が、白けた太陽の光を遮る度に、或は濃く或は薄く、水の色が著るしく映え変る。と、横ざまの疾風《はやて》を受けて、藍色の海面は白く光る、小さな風浪《かざなみ》に覆いつくされ、毒々しい銀色にきらめき渡る。白い冷たいその海の彼方には、暗緑の鳥喰崎が、折りからの雲の切れ目を鋭い角度で射通した太陽の点光《スポット・ライト》に照らされて、心持ち赤茶けながらくっきりと映えあがって来た。
私達の乗った白鮫号は、左舷の前方から強き南風を受けて、射るように速くうねりを切って走り続ける。私も東屋氏もヨットの帆走《セイリング》法は心得ていたし、それにこのシックなマルコニー・スループは、恐ろしく船足が軽い。やがて私は、軽く面舵《おもかじ》を入れた。白鮫号の船首《プラウ》は、緩やかな弧を描いて大きく右転しはじめる。鳥喰崎に近附いたのだ。進むにつれて右舷の海中へ、身を曲《く》ねらして躍り出た巨大な怪獣のような鳥喰崎の全貌が、大きくのしかかるように迫り寄る。すると、その出鼻を越して私達の視野の中へ、鏡のような内湾が静かに横わって来た。船は緩やかにその内湾の入口に差し掛る。間もなく私達は、無気味な吹溜りを擁していると云う小さな鉤形の岬を曲り始めた。内湾を左に見て段々私達がその岬を折れ曲るに従い、鳥喰崎の陰鬱な裏側が見え出して来た。確かにそれは陰鬱だった。
水際には少しも岩がなく、それかと云って、何処の浜にでもある砂地とても殆んどなく、一面に黒光りのする岩のような粘土質の岸の処々に、葦《あし》に似た禾本《かほん》科の植物類が丈深く密生して、多少|凸凹《でこぼこ》のある岸の平地から後方鳥喰崎の丘にかけて、棘《いばら》のような細かい雑草や、ひねくれた灌木だの赤味を帯びた羊歯類の植物だのが、遠慮なく繁茂している。そしてその上方には、原始的な喬木の類が重苦しいまでに覆い重なっている。船がこの陰気な小さい入江にはいると、不思議に風がなくなってしまった。少しの横揺れもしない白鮫号は、惰性の力で滑るように動いている。恰度この時、いままで海面にギラギラ反射しながら照りつけていた太陽の光りが、深い雲の影に遮られると、急に辺りが暗く、だが気味悪いほどハッキリして来た。私は思わず水面を見た。
この小さな海の袋小路の上には、どろどろした、濃い、茶褐色の薄穢い泡の群が、夥しく漂っている。そしてそれが、入江の奥へ行くに従ってどんどん密度を増し、とうとう一面の泡の海と化して来た。
「この辺へ着けよう」
東屋氏の言葉に従って重心板《センター・ボード》が海の底へ触れないように、なるべく深味のところを選んで私は船を着けた。
恰度私達が、しっとりした岸の上へ降り立った時に、
「シイッ!――」
と東屋氏が、不意に私を制した。
辺りが恐ろしいほど静かになった。と、その静寂《しじま》を破って、遠く、低い、木の枝を踏みつけるような、或は枝の葉擦れのような、慌だしい跫《あし》音が私の耳を掠《かす》め去った。誰かが大急ぎで、密林の中を山の方へ駈け込んで行くのだ。
「誰れだろう?」
私は東屋氏を振り返った。が、彼はもう跫音などには頓着なく、五|米突《メートル》ほど隔てた岸に立って、黒い粘土の上を指差しながら私へ声を掛けた。
「一寸見に来たまえ」
そこで私は東屋氏の側へ歩み寄って、指差された地上へ眼を落した。水際の粘土質から草地の方へ掛けて、引っこすったような無数の妙な跡がある。確かに足跡を擦り消した跡だ。
「昨晩、キャプテン深谷氏を殺した男達の足跡だよ。それを、いま密林へ逃げ込んで行った男が消したわけさ」
「追っ駈けて捕えよう」
私は思わずいきまいた。
「もう駄目だよ。こんな勝手の知れない山の中では、僕等の負けにきまってる」
「ふん……じゃあ怪しい奴は、まだうろうろしてたんだな」
私は口惜しそうに云った。
「そんなことはきまってるさ」
と東屋氏は、それから意外なことを云
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