たまま、窓の外を見ながら東屋氏が口を切った。
「あの柱《マスト》は、何になさるのですか?」
「あああれは、汽船《ふね》の気分――を出すためとか申しまして」
夫人が物憂げに答えた。「あれも主人の、趣味でございます」
「尖端《さき》の方に妙な万力が吊るしてありますな?」
「ええ、そう云えば、時にはあの尖端《さき》に燈火《あかり》を点けることもございました……年に一度か二度のことですが、なんでも、いつもより少し遠く、沖合まで帆走《セイリング》する時の、目標《めじるし》にするとか申しまして……」
「ははあ」
と東屋氏はいずまいを改めて、
「いや、随分いい眺望《ながめ》ですなあ」
「お気に召しましたか?」
洋吉氏が口を入れた。
「いや、全く美しいです。こんな美しい海岸でしたら、穢い泡などが浮き溜っているようなところはないでしょうなあ?」
すると洋吉氏は、
「いや。ところがあるんですよ」
と窓の外を指差しながら、「ほら、あそこに、静かな内湾のこちらに、妙に身を曲《く》ねらした、処々に禿山のある岬が見えますね。あの岬は鳥喰崎《とりくいざき》と呼ばれていますが、あの先端《さき》の向う側が、一寸鉤形に曲っていて、そこに小さなよどみ[#「よどみ」に傍点]と云いますか、入江になった吹き溜りがあります。その吹き溜りには、濃い茶褐色の泡が平常《いつも》溜っています……去年の夏水泳をしながらあの中へはまり込んで、随分気味の悪い思いをしましたから、よく覚えていますよ」
「ああそうですか。……時に貴方は、大変チョコレートがお好きだそうですな?」
このぶっきら棒な質問には、明かに洋吉氏も驚いたと見えて、複雑な表情《かお》をして東屋氏を見返した。
「ああ、いや」と東屋氏は妙な独り合点をしながら、「実は今朝、ヨットの中にチョコレートのチューブがあったそうですので、私はまた、貴方が昨晩……」
「冗談じゃあない」
洋吉氏が流石《さすが》に色をなして遮った。「成る程私は、チョコレートが好きです。が、あれは、昨日の午後に、姉と二人で帆走《セイリング》した時の残りものです。昨夜は、僕は黒塚さんと一緒に、おそくから山の手を散歩していたんです」
「ははあ、ではその御散歩中、ひょっと怪しげな人間に逢いませんでしたか?」
「逢いませんでしたよ」
と今度は、いままで黙って巻葉《シガー》を燻らしていた黒塚氏が乗り出した。
「では、海の上に、白鮫号は見えませんでしたか?」
すると黒塚氏は、口元に軽く憫《あわれ》むような笑いを浮べながら、
「なにぶん闇夜で、生憎薄霧さえ出ましたからね……」
そこで東屋氏も笑いながら、
「お風邪を召されませんでしたか?」
とそれから急に真顔になって、「ところで、大変あつかましいお願いで恐縮ですが、貴方と洋吉さんのお二人に、一寸お体を拝借したいんですが?」
「よろしいですとも……だが、なにをなさると被仰《おっしゃ》るんです?」
「あの物置の、秤に懸《かか》って戴きたいです」
「と被仰《おっしゃ》ると……いったい又なんのためにそんな事をなさるんですか?」
「ええその、この事件に就いて、少しく愚案が浮びましたので……」
「はて? 少しも合点がいきませんな……我々の体を天秤へ乗っける――?」
「つまりですな……犯行当時の白鮫号に、人間が合計三人以上、正確に云えば、一九〇|瓩《キロ》強の重量が乗っかっていた、と云う私の推定に対する実験のためにです」
「ど、どうしてそんな事が断定出来たのですか?」
「先程拝見しました白鮫号の白い舷側の吃水線から、一様に五|吋《インチ》程の上のところに、水平な線に沿って、茶褐色の泡の跡が残っております。でこの五|吋《インチ》の開きは、正確な計算によりますと、約一九〇・九二〇|瓩《キロ》の積載重量の抵抗、白鮫号の浮力に対する抵抗を証明しているのです」
すると黒塚氏は軽く笑い出した。そして、冷やかな調子で口を入れた。
「成る程ね。しかしわれわれ玄人《くろうと》側から見ると、貴方のそのお考えには、少々異論が出ますな……」
東屋氏の顔が心持緊張した。私もついつり込まれて、思わずテーブルの上へ乗り出した。
「貴方はローリング、つまり横揺れを考慮に入れていない」と黒塚氏が始めた。
「御承知の通り、このローリングは、どんな船でも多少にかかわらず必ず作用するものでしてね。で、この場合、空《から》の白鮫号の吃水線上五|吋《インチ》のところに泡の線が着いていたにしても、それをもって直《ただち》に九〇|瓩《キロ》[#「九〇|瓩《キロ》」はママ]強の重量が積載されていたと断定するのは、甚だ早計な観測だと思うのです。と云うのは、たとえそれだけの重量の抵抗がなかったとしても、ローリングによって船が左右に傾けば、その角度の大小に従って舷側の吃
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