いいえ、キャプテンお独りだけでございました」
「何時《いつ》頃出られたんです」
 東屋氏は益々執拗だ。
「さあ、存じませんが……早川さんと私は、それぞれお先へ寝《やす》まして戴きましたので――」
「ではどうして、キャプテン独りで出られたのが判ったのです?」
「それは……」と彼女は明かに困った風で、「でも、ヨットは今朝、キャプテン独りだけで漂っていましたので」
 東屋氏は一息つくと、改めて云った。
「キャプテンは、随分変った方でしたね?」
「ええ。風変りでいらっしゃいました。……そして、なんでも『これは儂《わし》の趣味じゃ』と被仰《おっしゃ》るのが口癖でございました」
 やがて私達は、崖道を登り詰めた。
「物置のある別館《はなれ》と云うと、あれなんですね?」東屋氏は岬の最尖端の船室《ケビン》造りの建物に向って、歩きながら言葉を続けた。
「もう少し、私と話をして下さい」
「はい」
 彼女は仕方なさそうについて来た。
「あの黒塚さんと云う方は、どう云う人ですか?」
「ああ黒塚様ですか」と彼女は幾分元気づいた様子で、「なんでもあの方は、以前キャプテンの乗っていらした汽船で事務長をなさっていらっしゃるとかで、休航毎にああしてお遊びに来られます」
「御年配は?」
「さあ、四十位? と思いますが……まだお独身《ひとり》で、快活なお方ですから、キャプテンよりもむしろ奥様や洋吉様とお親しい様子で……」
「ああその洋吉さんと云う方は、奥さんの御舎弟ですってね」
「ええそうです。チョコレートのお好きな、随分モダーンな方で、この春大学を御卒業なさってから、ずっとこちらにいらっしゃいますわ」
「チョコレートが好き?」
 私は瞬間、先程の下男の言葉を思い出して、思わず口を入れた。「それで、昨夜何時頃に寝《やす》まれましたか? 洋吉さんは」
「昨夜ですか? 存じません。なんでも黒塚様と御一緒に、久し振りだからって随分遅くまで御散歩のようでしたので――」
 恰度この時、下男の早川が私達に追いついて来た。そしてもう別館《はなれ》の物置の入口まで来ていた私達へ、
「秤は此処にございます。一寸お待ち下さい」
 そう云ってポケットから鍵を取り出した。
 東屋氏は女中へ云った。
「いや、もう結構です。有難う」
 そこで彼女は、ほっとしたように急いで、主館《おもや》の方へ引返《ひっかえ》して行った。そして間もなく私達は物置の中へはいって、銘々《めいめい》に秤へ懸りはじめた。
 先ず東屋氏が五六・一二〇|瓩《キロ》、次に私が五五・〇〇〇|瓩《キロ》、下男の早川が六五・二〇〇|瓩《キロ》。二つの石は合せて一四・六〇〇|瓩《キロ》。そして合計一九〇・九二〇|瓩《キロ》。――
 東屋氏は、以上の数字をノートへ記入しながら、
「合計一九〇・九二〇|瓩《キロ》と、さあよし。つまりこれが、昨夜の白鮫号に加えられた、最高の重量と云うわけだ。……じゃあここらで、昼食にありつくとしようか」
 そこで私達は物置の外に出た。けれども東屋氏は、物置の直ぐ右隣のスマートな船室《ケビン》風の室《へや》を見ると、思いついたように早川へ云った。
「これが、キャプテンの書斎ですね?」
「ええそうです。船室《ケビン》、船室《ケビン》と呼んでいる特別の室でございます。やはりキャプテンの御趣味に従って七、八年前に建てられたものでして、お許しがなくては誰でも這入れないことになっております」
「成る程、じゃあもう、永久に這入れないわけですね」
 東屋氏は皮肉を云いながら歩き出した。

「ローンジを兼《かね》た美しい主館《おもや》の食堂では、窓に近い明るい場所にテーブルを構えて、深谷夫人と黒塚、洋吉の三人が、悲嘆のうちにも、もう和やかな食事を始めていた。そこで私達も席について気不味さを避けるように窓の外の美しい景色を眺めながら、人々の仲間に加わった。
 ここから見ると、海の姿は一段と素晴らしい。遠く左の方には薄紫色の犬崎が、私達の通って来た海岸へ続くのであろう、この大きな内海を抱きこむようにして、漂渺たる汀《みぎわ》を長々と横えている。向って右側には、油を流したような静かな内湾地帯だ。幾つもの小さな岬が重なり合った手前には、ひときわ目立って斑《まだら》な禿山のある美しい岬が、奇妙に身を曲《く》ねらして海の中へ飛出している。凡て右側の湾の多い陸地は、深い山が櫛の歯のように海に迫り、蜘蛛の子を散らしたような磯馴松《いそなれまつ》が一面に生い茂っている。この邸以外には人家らしいものとてなく、見渡す限り渺茫たる海と山との接触だ。青い、ぼかし絵のようなその海を背にして、深谷氏の船室《ケビン》が白々と輝き、風が出たのか白い柱《マスト》の上空を、足の速い片雲が夥しく東の空へ飛び去っていた。
 やがて食事が済むと、紅茶のカップを持っ
前へ 次へ
全17ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
大阪 圭吉 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング