、ハッとなって身を退《ひ》いた。
 紳士の不機嫌《ふきげん》が、クルミさんの心を鞭打《むちう》ったのだ。が、そればかりではない。もう一つ大きな理由があったのだ。クルミさんは、紳士の右手を、はじめて見たのである。
 誰でも知っているように、汽車の窓をしめるには、必ず両手を使わなければならない。それで、今、立ちあがった紳士も、この時はじめて右手をポケットから出して、両手で窓をしめたのであるが、丁度《ちょうど》その右手が、窓の外を見ているクルミさんの顔の前へ来てとまった。が、窓がしまると、素早《すばや》く紳士はその手を引ッこめて、ポケットへ入れ、再び前の姿勢になって、新聞を読みはじめたのだ。
 しかし、その短い間に、クルミさんは、紳士の右手を見てしまった。
 [#底本では、改行行頭のアキ、脱落]その手は、中指が根元《ねもと》からなくて、四本指である。
「ああ、傷痍軍人《しょういぐんじん》の方か知ら?」
 瞬間、クルミさんはそう思って、みるみる身内《みうち》が熱くなった。
「もしそうだったなら、あたしはなんて愚かな少女だろう。そういう立派なお方と、同席したことを不愉快に思っていたなんて!」
 しかし、すぐにクルミさんの頭の中には、ムラムラとひとつの疑惑《ぎわく》が持上った。
「でも、もし軍人さんだったなら、どうしてそのように貴い御負傷を、こんなに不自然にお隠しになるのだろう?」
 ――そうだ、たとい、軍人さんでなくって、普通にお怪我《けが》をなさった方にしても、こんなに不自然な、隠《かく》されかたをされる筈はない。
 クルミさんは、そう思うと、なんだか前よりも体が引きしまるような気がして、一層小さくなりながら、硝子越しに、ひたすら窓の外を見詰めつづけるのだった。

       三

 間もなく列車は、横浜《よこはま》を過ぎた。
「ひょっとすると、横浜で下りてくれるかも知れない」
 そう、ひそかに心の中で思っていたクルミさんの望みも、すっかり裏切られて、紳士は、相変らずクルミさんの眼の前にいる。それどころか、読みかけの新聞を、帽子をかむったままの顔の上へ乗せるようにしたまま、どうやら居睡《いねむ》りでもはじめたらしく、軽い鼾《いびき》が聞えて来る。この分だと、何處まで行くか知れない。ひょっとすると、国府津よりも向うの、小田原《おだわら》か、熱海あたりまで行くのかも知れない。
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