クルミさんは、とうとう観念してしまった。
「これでもう、大船のサンドウィッチも、みすみすダメになってしまった」紳士は、居睡《いねむ》っているのであるから、サンドウィッチを買ったって、構わないようなものの、しかし、物音を立てて、うっかり眼でもさまされたら、却って困る。
 クルミさんは、そおッと自分のポケットへ手をやってみる。チューインガムもキャラメルも、まだそのままでジッとしている。
 クルミさんは、固唾《かたず》を呑みながら、外を見た。
 窓の外には、すがすがしい新緑に包《つつ》まれた湘南《しょうなん》の山野が、麗かな五月の陽光を浴びながら、まるで蓄音機のレコードのように、グルグルと際限もなく展開されて行く。そういう景色を眺めながら、クルミさんはなんとかして自分の気持を引きたて、今朝の元気をとりもどそうと、つとめてみるのだった。
 ところが、気持が引きたてられるどころか、この時、却って、大変もない[#「もない」はママ]ことが起きあがってしまった。
 さっきから、少しずつズレかかっていた紳士の顔の上の新聞が、この時、ガサッと音をたてて、紳士の横坐りになっている膝《ひざ》の上へ落ちて来た。
 [#底本では、改行行頭のアキ、脱落]クルミさんはヒヤリとなった。どうしようかと思って、紳士の顔と、落ちた新聞を見較べた。
 むろんこのまま、そっとしておくより仕方はない。がしかし、この時クルミさんは、思わずギクリとなった。
 紳士の顔は、うしろのもたれ[#「もたれ」に傍点]と窓枠《まどわく》の間へはまり込むようにして居睡《いねむ》っているので、帽子が前へズレて、半分隠されたようになっているが、それは、さっきのままの顔である。クルミさんが、びっくりしたのは、その顔ではなくて、落ちた新聞のほうである。その新聞は、落ちた拍子に裏返しになって、さっきまで紳士が熱心に読んでいた方の面が出ているのだ。クルミさんは全くなにげなしにその新聞を見たのであるが、思わずギクッとなって、あやうく声を立てるところだった。
 それは三面記事で、上のほうの右肩のところに、次のような恐しい文字が、大きな活字で印刷されてあった。

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覆面《ふくめん》の盗賊《とうぞく》、今暁《こんぎょう》渋谷の××銀行を襲う、行金《こうきん》を強奪《ごうだつ》して逃走す
[#ここで字下げ終わり]

 それが
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