階下《した》には、店の他に、やはり二部屋あった。が、むろん房枝は見当らない。表には、もう十一時から戸締りがしてある。警官達が崩れ込んだ前後にも、そこから逃げ出す隙はなかった。そこで彼等は、台所へ押掛けた。そこはこの家の裏口になっていて、幅三尺位の露次《ろじ》が、隣に並んだ三軒の家の裏を通って、表通りとは別の通りへ抜けられるようになっていた。その露次を通り抜けて街へ出たところには、しかし人の好さそうな焼鳥屋が、宵から屋台を張っていた。焼鳥屋は頑固に首を振って、もう二時間も三時間も、この露次から出入《ではいり》した者はない、とハッキリ申立てた。そこで警官は引返すと、今度はいよいよガタピシと煙草屋の厳重な家宅捜査をしはじめた。そして、便所でも押入でも、片ッ端から容赦なしに捜して行くうちに、とうとう二階の、それも当の殺人の行われた部屋の押入の中に、房枝をみつけてしまった。
 ところが、真ッ先にその押入の唐紙《からかみ》をあけた警官は、あけるが否《いな》や、叫んだ。
「や、や、失敗《しま》った!」
 押入の中で、もう房枝は死んでいた。
 さっきに「青蘭」の女達が見たときのままの、殆んど無地とも見える黒っぽい地味な着物を着て、首に手拭を巻いて、それで締めたのか、締められたのか、グンナリなって死んでいた。血の気の引いた真ッ蒼《さお》な顔には、もう軽いむくみが来ていたが、それが房枝である事は間違いなかった。娘の君子は、警官に抱き制《と》められながらも、母親の変りはてた姿へおいおいと声をあげて泣きかけていた。
 いままで警官の後ろからコッソリ死人を覗き込んでいた例の三人組の一人が、黄色い声でいった。
「ああ、この死人《ひと》ですよ。あっちの、派手な着物を着た方の女を、剃刀で殺したのは、この女です」
 すると上役らしい警官が乗り出して、大きく頷いていたが、やがていった。
「――つまり、なんだな、あの澄子という女を殺してから、この房枝は、暫く呆然として立竦《たちすく》んどったが、「青蘭」の窓から、君達に見られとったと知ると、急に正気に戻って……さりとて階下《した》へおりるのは危険だから、ひとまずよろよろと押入の中へ隠れ込んだ……が、そうしているうちにも、いよいよ自責と危険に責められるにつれ、堪えられなくなってとうとう自殺した……ふむ、まずそんな事だな」
 警官はそう云って、桃色の寝巻のままで泣きじゃくっている君子のほうへ、手帳を出しながら身を屈めた。
 ところが、それから間もなく検判事と一緒に警察医が現場へ出張して来て、本格的な調べが始まり、やがて房枝の検屍にかかると、俄然、なんとも奇怪至極な、気味の悪い事実が立証されて来た。
 それは、房枝が澄子を殺したのであるから、当然房枝は、澄子よりあとから死んだわけであって、澄子より先に死んでいる筈はないのであるが、それにもかかわらず、まだ澄子の死体にはほのかに生気が残っており体温もさめ切っていないというのに、房枝の死後現象はかなりに進行していて、冷却や屍固《しこ》、屍斑等々のあらゆる条件を最も科学的に冷静に観察した結果、確実に最少限一時間以上を経過している、と医師が確固たる断定を下したのだった。
「そ、そいつアおかしいですね……」と先程の警官がメンクラッて云った。「そうすると……いや、飛んでもないことだ……つまり、もう澄子が殺されてから二十分位になりますが、房枝が死後一時間と云うと、澄子が殺されたより四十分くらい前に、被害者より先に、加害者が死んでいた――ってことになりますよ。……逆に考えると、澄子が断末魔に残したあの『房枝』ってのも、それから大勢の証人達が見たと云う剃刀を振廻していたその『房枝』ってのも、それは本物ではなく、もうその時にはとっくに死んでいた房枝……飛んでもない……房枝の幽霊ってことになりますよ。幽霊の殺人※[#感嘆符疑問符、1−8−78]……それも銀座の、ジャズの街の真ン中で、幽霊が出たんだから、こいつア新聞屋にゃア大受けだがね……」

          二

 事件は、俄然紛糾しはじめた。警官達は大きな壁にでもぶつかった思いで、ハタと行き詰ってしまった。しかも、問題が二つに分れて来た。死人が二人になった。そのうちの一人は、幽霊に殺され、他の一人は、死んでから、幽霊になってふらふらと人を殺しに出掛けたことになる。なんという奇怪な話だろう。
 しかし、このまま踏みとどまっていることは出来ない。警官達は直ぐに気をとりなおして、再び調査にとりかかった。
 まず、あとから殺された澄子のほうは、ひとまず後廻しにして、とりあえず房枝の死について調べ始めた。
 ――いったい房枝は、自殺したのか? それとも他殺か?
 けれどもこの疑問に対しては、警察医は、縊死とは違って、自分から手拭で首を締めて死ぬな
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