う。恐怖に魂消《たまげ》て死人と見るや否や、そのまま飛び出して交番へ駈けつけたに違いない。しかしこの時の私には、目に見える恐怖よりももっと恐ろしい目に見えない恐怖があった。私はその家に飛び込むと、真っ先に大事な子供の姿の見えないのに気がついた。妙なことだが、眼の前に殺されている人よりも、奪われた子供の安否に焼くような不安を覚えた。私にも、及川や比露子と同じように、留守中の三四郎に対する責任があった。
三四郎の家は、皆で四部屋に別れていた。そこで私は、おびえる心を無理にも引立てるようにしながら、すぐに残りの部屋を調べはじめたのだが、しかし家中探しても何処にも子供の姿は見えなかった。
ところが、そうしているうちに私はふとあることを思い起して、思わずハッと立止った。それはあの、惨劇の部屋の窓が、引戸を開けられたままでいたことだった。考えるまでもなくこれは確かに可笑《おか》しい。この寒中の夜に部屋の窓のあけ放されている筈はない。二人の大人を叩き殺して子供を奪い取った怪しい男が、その窓から、あわてて戸も締めずに逃げ出して行く姿を私はすぐに思い浮べた。そこで私は、恐る恐る元の部屋に引返した。そして見えない敵に身構えるように壁によりそって、そっと窓の外を覗き見た。
窓の下の雪の上には、果して私の予期したものがみつかった。明らかにそこからスキーをつけたと思われる乱れた跡が、夜眼にもハッキリ残されていた。そしてその乱れた跡から二筋の条痕《すじあと》が滑り出して、生垣の隙間を通り越し、仄白い暗《やみ》の中へ消え去っていた。その暗《やみ》の向うの星空の下からはまだ鳴りやまぬクリスマスの鐘が、悪魔の囁きのように、遠く気味悪いほど冴え返って、ガラン、ゴロンと聞えていた。
私は猶予なく、決心した。そして直ちに玄関口へ戻ると、そこから自分のスキーをつけて戸外《そと》へ飛び出し、勝手口の方を廻って、裏側の、開放《あけはな》された居間の窓の下までやって来た。
雪の上に残されていたスキーの跡は、確かに二筋で、それは一人の人の滑った跡に違いなかった。踏み消さないようにしながら、生垣の隙間を越して、私は直ちにその跡を尾行しはじめた。
ところが、歩きはじめて間もなく、私は有力な手掛りを発見した。というのは、そのスキーの跡は、平地滑走でありながら、両杖を突いていない。条痕《すじあと》の左側には、杖を突いていたと見えて、杖の先の雪輪《リング》で雪を蹴散らした痕《あと》が二、三間毎についているが、右側には全然ない。
私の胸は高鳴りはじめた。予想が適中したのだ。つまりそのスキーの主は、左手には杖を突きながら、右手には杖を突くことが出来なかったのだ。その手は、杖の代りに何ものかを抱えていたに違いない。怪しい男に抱えられて、藻掻《もが》きつづけながら運ばれて行った子供の姿が、瞼《まぶた》の裏に浮上って来た。私はいよいよ固くなりながら、前の方を絶えず透し見てはスキーの跡をつけて行った。
疑問のスキーは、生垣を越して空地を通り抜け、静かな裏通りへ続いて行った。この辺りはH市の郊外でも新開の住宅地で、植込の多い人家はまばらに点在して、空地とも畑ともつかぬ雪の原が多かった。
この雪は、夕方から八時まで降った処女雪で、美しい雪の肌には他のスキーの跡は殆んどなく、時たま人家の前で新しいスキーの跡と交叉したり、犬の足跡がもつれたりしている以外には、疑問のスキーを邪魔するものはなかった。なにしろ、相手が相手である。私は戦慄に顫えながらも、益々注意深く、森《しん》とした夜空の下を滑りつづけて行った。
疑問のスキーは、やがて裏通りを右手に折れて、広い雪の原へはいって行った。その空地の向うには、三四郎の家の前を通って市内へ通じている本通りがある。スキーの跡は市内の方へ向いてその空地を斜めに横切り、どうやら向うの本通りへ乗り換えるつもりらしい。この分では、途中で警官に応援を求めることが出来るかも知れない。私は急に元気づいて、かなり広いその原ッぱを、向うの通りへ斜めに向って走って行った。しかしその私の考えは、まるでトテツもない結果に終ってしまった。
最初私が、スキーの跡は本通りへ乗換えていると思い込んだのが、そもそもよくなかった。はじめそのつもりで斜めに雪の原を横切って行った私は、もうその原ッぱを半分以上も通り越したところで、ふと、いつの間にか疑問のスキーの跡を見失っていることに気がついた。びっくりした私は、あわててあたりを見廻した。が、雪の肌にはなんにもない。ただ私の通って来た跡だけが、少しずつ曲りくねりながら至極のんびりと残っているだけだ。
私は、自分で自分をどやしつけながら、あわてて廻れ右をした。あたりをせわしく見廻しながら、元の空地のはいり口へ向って、後もどりをはじめた。い
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