行に出掛ける仕度をしていた時だった。
 三四郎が級主任をしている補習科A組の美木《みき》という生徒が、不意に転げ込んで来て、三四郎の留守宅に持上った兇事の報せを齎《もた》らして来た。私は寒空に冷水を浴びた思いで、それでもすぐにスキーをつけると、あわてふためいて美木と一緒に走りはじめた。
 私達が家を出ると、直ぐに市内の教会から、クリスマス前夜《イヴ》の鐘が鳴りはじめたので、もうその時は九時になっていたに違いない。
 美木という生徒は、大柄な水々しい少女で、どこの女学校にもきまって二、三人はいる早熟組の一人だった。化粧することを心得、スカートの長さがいつも変って、ノートの隅に小さな字で詩人の名ばかり書き並べていようという。美木はまた、よく三四郎のところへ遊びに来ていた。「浅見先生に文学を教えて頂く」なぞと云いながら、三四郎の留守にも度々訪れたというのだから、その「文学」は三四郎でなく、及川にあったのかも知れない。いずれにしても美木は、その夜も三四郎の宅を訊ねて行ったという。けれども戸締りがしてないのに家の中に人の気配がないと、ふと不審を覚えていつもの軽い気持で玄関から奥へ通ずる扉《ドア》を開けてみた。そして家の中の異様な出来事をみつけると、一番近い私のところまで駈けつけて来たという。
 さて、私の家から三四郎の家までは、スキーで行けば十分とかからない。
 三四郎の住居は、丸太材を適度に配したヒュッテ風の小粋な住居《すまい》で、同じように三軒並んだ右端の家であった。左端の家はもう休んだのか窓にはカーテンが掛り、真中の家は暗くて貸家札が貼ってあった。三四郎の家の前まで来ると、美木はもう顫《ふる》え上って動こうとしなくなった。それで私は、ここから程遠くない同じ女学校の物理教師の田部井《たべい》氏の家まで、彼女を求援に走らした。そして流石《さすが》に固くなりながら、思切って三四郎の家へ入っていった。
 玄関の隣りは、子供の部屋になっていた。壁には幼いクレオン画で、「陸軍大将」や「チューリップの兵隊さん」が、ピン付けになっていた。部屋の中程には小さな樅の木の鉢植えが据えられて、繁った枝葉の上には、金線のモールや色紙で造られた、花形や鎖が掛り、白い綿の雪がそれらの上に積っていた。それは三四郎が、臨時講師に出る前から可愛い春夫のために買い植えてやったクリスマス・ツリーであった。
 しかしその部屋に入った私が、まっ先に気づいたものは、部屋の片隅の小机の前に延べられた、クリスマス・ツリーの小さな主人《あるじ》の寝床《ベッド》だった。その床は夜具がはねのけられて、寝ていた筈の子供の姿は、見えなかった。主人を見失ったクリスマス・ツリーの銀紙の星が、キラキラ光りながら折からの風に揺れ、廻りはじめていた。
 けれども次の瞬間、私は、その部屋のもう一人の臨時の主人であった及川が、奥の居間へ通ずる開け放された扉《ドア》口のところに、頭をこちらへ向けて俯向《うつむ》きに打倒れている姿をみつけた。私は期せずして息を呑みこんだが、開け放された扉《ドア》口を通して、向うの居間がなんとなく取り散らされた気配をさとると、すぐに気をとり直して境の扉《ドア》口へ恐る恐る爪先立ちに歩み寄り、足元に倒れた人と見較べるようにして居間の中を覗きこんだ。
 そこには、トタンを張った板枠の上に置かれたストーブへ、頭を押付けるようにして、三四郎の妻の比露子が倒れていた。髪の毛が焦げていてたまらない臭気が部屋の中に漂っていた。
 私は、恐れと意外にガタガタ顫えながら暫く立竦《たちすく》んでしまったが、必死の思いで気をとり直すと、屈みこんで恐る恐る足元の及川の体に触ってみた。が、むろんそれは、もう生きている人の体ではなかった。
 及川も比露子もかなり烈しく抵抗したと見えて、ひどく取り乱した姿で倒れていた。二人とも額口から顔、腕、頸と、あらゆる露出個所に、何物かで乱打されたらしく紫色の夥しいみみず腫れが覗いていた。しかしすぐに兇器は眼についた。及川の足元に近く、ストーブの鉄の灰掻棒が、鈍いくの字型にひん曲って投出されていた。部屋の中も又、激しく散乱されていた。椅子は転び、卓子《テーブル》はいざって、その上に置いてあったらしい大きなボール紙の玩具箱は、長椅子の前の床の上にはね飛ばされ、濡れて踏みつぶされて、中から投げ出された玩具の汽車やマスコットや、大きな美しい独楽《こま》などが、同じように飛び出したキャラメルや、ボンボン、チョコレートの動物などに入れ混って散乱し、そこにも小さな主人を見失った玩具達の間の抜けたあどけなさが漂っていた。
 もしも私が、この場合まるで知らない人の家へ飛び込んで、そのような場面にぶつかったとしたなら、恐らくこんな細かに現場の有様に眼を通したりしてはいられなかったであろ
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