寒の夜晴れ
大阪圭吉

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)浅見三四郎《あさみさんしろう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)三十|面《づら》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)なに三四郎が※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
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 また雪の季節がやって来た。雪というと、すぐに私は、可哀そうな浅見三四郎《あさみさんしろう》のことを思い出す。
 その頃私は、ずっと北の国の或る町の――仮にH市と呼んでおこう――そのH市の県立女学校で、平凡な国語の教師を勤めていた。浅見三四郎というのは、同じ女学校の英語の教師で、その頃の私の一番親しい友人でもあった。
 三四郎の実家は、東京にあった。かなり裕福な商家であったが、次男坊で肌合の変っていた三四郎は、W大学の英文科を卒《お》えると、教師になって軽々《かるがる》諸国行脚の途についた。なんでも文学を志したというのだが、いまだ志成らずして、私とH市で落合った頃には、もう三十|面《づら》をかかえて八つになる子供のいい父親になっていた。少しばかり気の短い男だったが、それだけに腹のないひどく人の好い男で、私は直ぐに親しくなって行った。もっとも、私が一番親しくしていたわけではない。誰れも彼も、三四郎を親しみ、三四郎に多かれ少かれ好意を持たない人はなかった。実家が裕福なためもあったろう、職員間でもなにかと心が寛《ゆる》く、交際も凡《すべ》て明るくて、変に理窟めいたところが少しもなかった。どうして、文学などという暗い道の辿れる男ではない。私はわけもなく親しくなって行きながら、すぐにそのことに気づいてしまった。
 わけても微笑ましいのは、家庭に於ける三四郎だった。どんなに彼が、美しい妻と一粒種の子供を愛していたか、それは女生徒達の、弥次気分も通り越した尊敬と羨望に現わされていた。事実私は、どの教師でも必らずつけられているニックネームを、三四郎に関する限り耳にした事がなかった。それはまことに不思議なことでさえあった。
 いまから思うと、すべての禍根は、こうした三四郎の円満な性格の中に、既に深く根を下していたのかも知れない。
 当時H市の郊外で、三四郎の住居の一番近くに住っていたのは私だった。それで恐ろしい出来事の最初の報せを私が受けたのであるが、悪い時には仕方のないもので、恰度その頃、当の三四郎が暫く家を留守にしていた間のことであったので、不意を喰《くら》って私はすっかり周章《あわて》てしまった。三四郎が家を留守にしていたと云うのは、その頃県下の山間部に新しく開校された農学校へ、学務部からの指命を受けて学期末の一ヶ月を臨時の講師に出掛けていたのだった。その農学校は二十五日から冬の休暇に入る予定であった。それで二十五日の晩には、三四郎はH市の自宅へ帰って来る予定だった。ところが不幸な出来事は三四郎よりも一日早く、二十四日の晩に持上ってしまった。
 その頃の三四郎の留守宅には、妻の比露子《ひろこ》の従弟《いとこ》に当る及川《おいかわ》というM大学の学生が、月始めからやって来ていた。この男に関しては、私は余り詳しく知らない。ただ明るい立派な青年で、大学のスキー部に籍を置いていて、毎年冬になると雪国の従姉のところへやって来ることだけは知っていた。全くH市の郊外では、もう十二月にもなれば、軒下からスキーをつけることが出来る。その及川と比露子と、その年の春小学校へ入ったばかりの、三四郎の最愛の一粒種である春夫《はるお》の三人が、留守宅に起居していた。いってみれば及川は、三四郎の留守宅の用心棒と云った形だった。しかし奇怪な出来事は、それにもかかわらず降って湧いたように舞い下った。
 さて、十二月二十四日のその晩は、朝からどんより曇っていた鉛色の空が夕方になって崩れると、チラチラと白いものが降りはじめた。最初は降るともなく舞い下っていたその雪は、六時七時と追々に量を増してひとしきり激しく降りつのったが、八時になると紗幕《しゃまく》をあげたようにパタッと降りやんで、不意に切れはじめた雪の隙間から深く澄んだ星空が冴え冴えと拡がっていった。こうした気象の急変は、しかし、この地方では別に珍しくも思われなかった。いつでも冬が深くなると、寒三十日を中心にして気象がヘンにいじけ[#「いじけ」に傍点]て来るのだった。いつもいつも日中はどんよりと曇りつづけ、それが夜になると皮肉にもカラリと晴れて、月や星が、冴えた紺色の夜空に冷く輝きはじめる。土地の人びとは、そのことを「寒《かん》の夜晴《よば》れ」と呼んでいた。
 八時に遅がけの夕飯を済ました私は、もう女学校も休暇に入ったので、何処か南の方へ旅
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