夫人を想像するのは、これこそ、最も尋常で、簡単な、だが非常にハッキリした強い魅力のある推理ではないか。――ところが、茲《ここ》に、僕の推理線の合理性を裏書して呉《く》れる適確な証拠があるんだ。君は、昨晩あの別荘の食堂で、夕食後比露子夫人が何気なく満紅林檎の皮を剥いて僕達に出して呉れたのを見ていたろう。そして勿論君は、その時、あの兇行の現場で僕が下した『犯人は左利である』と言う推定を思い出しながら、熱心に夫人の手元を盗み視たに違いない。ところが、夫人は左利ではなかった。そこで君は恰も自分の過敏な注意力を寧《むし》ろ嫌悪する様ないやな顔をして鬱ぎ込んで了《しま》った。――だが、決して君の注意力は過敏ではなかったのだ。それどころか、まだまだ観察が不足だと僕は言いたい。若しもあの時、君がもう少し精密な洞察をしていたならば、屹度《きっと》君は、驚くべき事実を発見したに違いないんだ。何故って、夫人は明かに右利で、何等の技巧的なわざとらしさもなく極めて自然に右手でナイフを使っていた。が、それにも不拘《かかわらず》、夫人の指間に盛上って来るあの乳白色の果肉の上には、現場で発見したものと全く同じ様な左巻の皮が嘲ける様にとぐろ[#「とぐろ」に傍点]を巻いているじゃないか。僕は内心ギクリとした。で、落着いてよく見る、……と。なんの事だ。実に下らん謎じゃあないか。問題は、ナイフの最初の切り込み方にあるんだ。つまり、普通果物を眼前に置いた場合、蔕《へた》の手前から剥き始めるのを、夫人の場合は、蔕の向う側から剥き始めるのだ。――勿論こんな癖は一寸珍らしい。が、吾々は現に昨晩別荘の食堂で、その癖が三つの林檎《りんご》に及ぼされたのを見て来ている。ありふれた探偵小説のトリックを、その儘《まま》単純に実地に応用しようとした僕は、全く恐ろしい危険を犯す処だったね。……ところで、この林檎の皮なんだが」大月はそう言って、いつの間に何処からか取り出した小さなボール箱の中から、大切そうに二|筋《すじ》の林檎の皮を取出しながら「この古い方は断崖の上の現場で、こちらは今朝別荘のゴミ箱から、それぞれ手に入れた代物だ。もう気付いたろうが、僕はこの艶のいい皮の表面から、同一人の左手の拇指紋を既に検出したんだ。――君。岸田直介の殺害犯人は比露子夫人だよ。さあ。これを御覧――」
 その結果は、ここに記す迄《まで》もなかろう。軈て大月は、ニタニタ笑いながら立上ると、大胯に隣室へ這入って行った。そして、再び彼が出て来た時に、その右手に提げた品を一眼見た秋田は、思わずあっと叫んで立上って了った。
 秋田が声を挙げたも道理、その品と言うのは、今朝三人が屏風浦の別荘を引挙げた時に、比露子夫人の唯一の手荷物であり、秋田自身で銚子駅迄携えてやった、あの派手な市松模様のスーツ・ケースではないか※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
「別になにも驚くことはないさ。僕は只、夫人の帰京の手荷物がこのスーツ・ケースひとつであると知った時に、屹度この中に大切な犯人の正体が隠されているに違いないと睨んだ迄の事さ。だから僕は、銚子駅で、親切ごかしに僕自身の手でこ奴をチッキにつけたんだよ。夫人の本邸へではなく、内密で僕のこの事務所《オフィス》を宛名《アド》にしてね。――今頃は屹度岸田の奥さん、大騒ぎで両国駅へ、チッキならぬワタリをつけているだろうよ。只、君は、いつの間にこれが持ち込まれて、隣室の戸棚へ仕舞われたかを知らなかっただけさ」
 そして笑いながら大月は、ポケットから鍵束を出して合鍵を求めると、素早くスーツ・ケースの蓋を開けた。
 見ると、中には、目の醒《さ》める様な水色《ペイルブリユー》のビーチ・コートにパンツと、臙脂色の可愛い海水靴と、それから、コロムビアの手提蓄音器《ポータブル》とが、窮屈そうに押込まれてあった。
「じゃあ一体、『花束の虫』と言うのはどうなったんですか?」
 秋田が訊ねた。大月は煙草に火を点けて、
「さあそれなんだがね、僕は最初その言葉を暗号じゃあないかと考えた。が、それは間違いで、『花束の虫』と言うのは、只単に、上杉の書いた二幕物の命題に過ぎないのだが、僕は、その脚本があの丘の上でジリジリに引裂かれていたと言う点から見て、岸田直介の死となにか本源的な関係――言い換えればこの殺人事件の動機を指示していると睨《にら》んだ。で、先程一寸電話で、瑪瑙座の事務所へ脚本の内容に就いて問い合わせて見た。するとそれは、一人の女の姦通《かんつう》を取扱った一寸暴露的な作品である事が判明した。ところが、事件に於て犯人である夫人は、明かに『花束の虫』を恐れていた。で、僕の疑念は当然夫人の前身へ注がれた訳だ。その目的と、もうひとつスパニッシュ・ワンステップの知識に対する目的とで、僕はあんな馬鹿げたホール回りをした
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