わけさ。――が、幸いにも、飯田橋華かなりし頃の比露子夫人の朋輩《ほうばい》であったと言う、先程のあのモダンガールを探し出す事の出来た僕は、計らずも彼女の口から、上杉逸二と比露子夫人とがそのかみのバッテリーであった事、そして又、夫人は案外にもあれでなかなかの好色家である事等を知る事が出来た。――で以上の材料と、僕の貧弱な想像力とに依って、最後に、犯罪の全面的な構図を描いて見るとしよう。……先ず比露子夫人は、岸田直介との結婚後、以前の情夫である上杉に依って何物かを――それは、例えば、恋愛の復活でもいいし、又何か他の物質的なものでもいい――兎に角強要されていた、と僕は考えたい。そして上杉は、その脅喝《きょうかつ》の最後の手段として、好色な夫人の現在の非行を暴露した『花束の虫』を、瑪瑙座に於ける新しい自分の地位を利用して、直介の処へ持って来たのだ。勿論、夫人は凡てを知っていた。そして、いま、裕福な自分の物質的な地位の上に刻々に迫ってくる黒い影を感じながら、この一両日の間と言うものは、どんなにか恐ろしい苦悩の渦に巻き込まれていた事だろう。其処では、恰度《ちょうど》イプセンのノラが、クログスタットの手紙を夫のヘルメルに見せまいとする必死の努力と同じ様な努力が、繰返されたに違いない。――だが、結果に於て夫人はノラよりも無智で、ヒステリカルであった。昨日の朝になって、多分夫人は、これ等の奇抜な季節違いの装束を身に着けると、『花束の虫』を読みたがる直介を無理に誘い出し、あの証人が黒いトランクと間違えたこの手提蓄音器《ポータブル》を携えて梟山へピクニックに出掛けたのだ。この場合僕は、あの兇行《きょうこう》をハッキリと意識して夫人はあんな奇矯[#「奇矯」は底本では「奇嬌」]な男装をしたのだと考えたくない。それは、犯罪前のあの微妙な変則的な心理の働き――謂《いわ》ば怯懦《きょうだ》に近い、本能的な用意、がそうさせたのだ。そして夫人は、絶えず『花束の虫』から直介の関心を外らす為に、努力しなければならなかった。――軈《やが》て、見晴のいいあの崖の上で、二人はダンスを踊り始めたのだ。あのうわずった調子の、情熱的なスパニッシュ・ワンステップをね。そして、その踊の、情熱の、最高潮に達した時に、今迄夫人の心の底でのたうち回っていた悪魔が、突然首を持上げたのだ。――茲《ここ》で君は、あの証人が、馬鹿にあっさり墜されたと言って不思議がっていた言葉を思い出せばいい。――それからの夫人は、完全に悪魔になり切って、もう恐れる必要もなくなった『花束の虫』を破り捨てると、手提蓄音器《ポータブル》を携《たずさ》えて直ぐに別荘へ引返したのだ。そして、最も平凡な犯罪者の心理で、あんな風に証人の一役を買って出た――と言うわけさ。……兎に角この手提蓄音器《ポータブル》を開けて見給《みたま》え。夢中になって踊っていた時に、誤って踏割ったらしいレコードの大きな缺片と、それから、先程一寸僕が拝借した、いずれも同じスパニッシュ・ワンステップのレコードが四五枚這入っているから――」
 大月はそう語り終って、煙草の吸殻を灰皿へ投げ込むと、椅子に深く身を埋めながら、さて、夫人の犯罪に対する検事の峻烈な求刑や、そしてそれに対する困難な弁護の論法などをポツリポツリと考え始めた。
[#地付き](一九三四年四月号)



底本:「「ぷろふいる」傑作選 幻の探偵雑誌1」ミステリー文学資料館・編、光文社文庫、光文社
   2000(平成12)年3月20日初版1刷発行
初出:「ぷろふいる」
   1934(昭和9)年4月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:網迫、土屋隆
校正:大野 晋
2004年9月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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