れた事になる。この考え方は確かに平凡である。警察も同感だろう。が、同じ同感でも私はその断定を下すまでに少くとも他の一、二の問題を明かに否定している。例えば先程私は被害者の絞殺致命傷の特徴からして、犯人は数人又は非常に強力な男と断定した。がこの内の「数人の犯人」は、以上の私の検討に依って既に否定されている。ああ言う組織の宿直員の中では、まず共謀と言う事は成立しないからだ。従って犯人は力の強い一人の男と言う結果に逢着する。その強力者とは誰だ」
「大分複雑になったねえ」
喬介の説明に恍惚《うっとり》として聞き入っていた私は、とうとうその興奮を爆発さしてしまった。喬介は、煙草に火を点けてぐっと一息深く吸い込むと、眼を輝かせながら言葉を続けた。
「複雑になった? 違うよ君、簡単になったのだよ。シャーロック・ホームズ気取りになるがね、『凡《すべ》ての否定を排除すれば残れるものが肯定である』と、どうだね。そうして犯行は屋上――この場合植込みに足跡のなかった事を留意して置く必要がある。――次に、所々の特に掌中の奇怪な擦過傷、強い力を持った犯人、執拗な兇器。これらの手掛を基礎として、最後の調査をして見よう。さあ、一つ拡大鏡でも仕入れて、もう一度屋上へ登ろう」
私達は立上って食堂を出た。何時の間にか入り込んで来た外客のために、辺りは平常のざわめきに立ち返り、階下の楽器部から明朗なジャズの音が、ギャラリーを行き交う人々の流れを縫ってゆるやかに聞えていた。
四階の眼鏡売場で中型の拡大鏡を手に入れた私達は、人々の波を分けて、再び屋上へ出た。事件のあったためか、一般の外客は禁足してあり、ただ数人の係員が、私達の闖入《ちんにゅう》に対して、好奇の眼を瞠《みは》っていたに過ぎなかった。
喬介は眉根に深い皺《しわ》を刻まして首を傾けながら、屋上の隅から隅へ鋭い観察を投げ掛けていたが、やがて私を促して死体の落下点と思われる東北側の隅へやって来ると、拡大鏡を振り廻して先程よりも一層綿密に鉄柵や植込みを調べ始めた。が、間もなくフッと思い切った様に其処を離れると今度は、何事か記憶を思い浮かべるかの様に、小声でぶつぶつ呟きながら、西側の虎の檻に向って歩き出した。其処で喬介は、大きなアフリカ産の牡虎が、屈托気《くったくげ》に昼寝をしている姿を見詰めながら暫く深い思案に陥っていた。が、急に向き直って、晴れ渡った大空の一角に眼をやった。と、彼はその両の眼を生き生きと輝かせながら、東側の露台へ向って大股に歩き出した。
その露台では、今まさに大きな灰色の広告気球《バルーン》が、その異様な姿態を晒《さら》け出して、愉快な青空の中へ、むくむくと上昇し始めていた。私は思わず息を吸い込んだ。
が、そこで私の驚いた事には、広告気球《バルーン》を揚げ掛けた気球係の男を捕えて、喬介は冷たい訊問を始めた。
「君は今朝何時に此処《ここ》へ来たかね?」
「ええ、実は昨晩少し天候が悪かったものですから責任上心配して、今朝は何日《いつ》もより少し早く六時半に出勤しました」
捲取機《ローラー》のハンドルを逆回転させながら、係の男は愛想よく答えた。
「すると君は、六時半にこのバルコニーヘ出た訳だね?」
「いいえ違います。六時半と言うのは店へ着いた時間でして、それからあの事件の噂を聞いたり屍体を見たりしていたものですから、此処へ上った時はもう七時でした」
「その時、このバルコニーの上で何にか変った処はなかったかね?」
「別に気附きませんでしたが、ただ、瓦斯《ガス》のホースが乱雑に投げ出されてあり、バルーンは非常に浮力が減って、フニャフニャになりながら、今にも墜《お》ちそうに低い処で漂っていました。が、これは天候の荒れた後によくあることです」
「バルーンは夜中にも揚げて置くのですか?」
「ええ、下に降ろして繋留《けいりゅう》して置くのが普通ですが、天候を油断してそのままにして置く時もあるのです」
「バルーンの浮力が減ったと言うのは?」
「気嚢《きのう》に穴が明《あ》いていたのです。もっともその穴は、一月程前に一度修繕した事のある穴ですが――」
「ははあ、それで君は先程気嚢の修繕をしていたのだね。ところで、このバルーンの浮力はどれ位あるかね?」
「標準気圧の元では600瓩《キロ》は充分あります」
「600瓩《キロ》と言うと随分な重量だねえ。いや、有難う」
訊き終ると喬介は、広告気球《バルーン》のロープに着いて揚《あが》って行く切り抜きの広告文字《サイン》を見詰めた。
ちょうど広告気球《バルーン》が完全に上昇してロープが張り切った時に司法主任がやって来た。
「やあ、皆さんそんな処で深呼吸をしているのですか! いや、非常に結構な事です。ところでどうですか。首飾の指紋はやっぱり被害者野口のものでしたよ
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