いた。
やがて私達の食事が始まると、熱い紅茶を啜りながら司法主任が喋り出した。
「事件は複雑ですが解決は容易ですよ。私は実地検証主義ですからね。それでですな――勿論、殺人は昨晩の十時から十一時までの間で行われ、今朝の零時から三時頃までの間に屋上から投げ墜されたものです。この時間と言い、戸締りが厳重で外部から侵入の余地がない点と言い、犯人は明かに店内の者です。いいですか、一層はっきり言えばですね、昨夜この店内にいた者と言うのです。勿論これはあなた方にだけ申上げるのですが、これから昨晩の宿直員を全部徹底的に調査します。ただ、ここで少し困難を感ずる問題は、首飾の一件です。もしも首飾を盗《と》った犯人が野口を殺害したものとすれば、何故犯人は首飾を遺棄したか? もし又首飾を盗った者を被害者自身とすれば、殺人の動機はどこにあるか? しかしこれらの問題を解決するためには、私は先ず首飾の指紋を検出して見ますよ。では、ご緩《ゆっく》り――」
司法主任は、元気な挨拶を残し、部下の警官を従えて食堂を出て行った。
今まで無言で食事をしていた喬介は、その口元に軽い微笑を浮べながら初めて口を切った。
「あの人は君の従兄弟と言ったね。ま、いいや、一体に日本の警察は、犯罪の動機を真っ先に持ち出したがるよ。だからたとえそれが皮相的なものにせよ今度の事件の様に一見動機の不可解な犯罪に逢着すると、直ちに事件そのものを複雑化してしまう。勿論、動機の探求結構さ。ただ、動機を以て、犯罪探偵の唯一の手掛であると考えたがる単純な公式的な頭脳に対して反駁《はんばく》したいのだ。早い話が、この事件に於て、我々はあの真珠の一件よりも、死体そのものに見られる三つの特徴の方が大事だ。第一に、頸部の絞殺致命傷|並《ならび》に胸部の絞痕――最初私はこの傷を鞭《むち》様の兇器で殴り附けたものと感違いした――に与えられた暴力が、非常に強大なものなる事。第二に両手の掌中に残された横線をなす無数の怪し気な擦過傷。その中には幾つかの胼胝《たこ》も含まれる。第三に、肩、下顎部、肘等の露出個所に与えられた無数の軽い擦過傷。と、まあこの三つだね。
先ず与えられた第一の手掛を分析検討して見よう。すると直ちに私は、犯人は数人又は非常に強力な一人の人間である、と言う推定に達する。同様にして、第二の手掛である掌中の擦過傷は、被害者が何物かを握り締めて摩擦さしたと言う事実を明確に暗示する、次に、第三の手掛である所々の軽い擦過傷を検討して見よう。軽薄ではあるが太く荒々しいあの瘡痕は、明かにナイフその他の金属類に依って与えられたものでなく、鈍重で粗雑なものであり、且《か》つ又掌中に擦過傷を与えた兇器或は同性質の兇器なる事を暗示する。そうしてこの事は、あの種の擦過傷を与える様なその物体が、犯行の当時現場に、もっと厳格に言えば格闘している被害者の身辺に、あったか、或は、直接犯人が持っていたかのどちらかだ。が、この場合私は後者だと思う。何故なら、加えられた力の量的な差こそあれ、これらの擦過傷はあの頸部胸部の絞殺瘡痕に対して質的な共通点を持っているからだ。君はあの土色に変色した皮膚が擦り破れて、出血していた被害者の頸部を思い出し給え。そうして極めて幼稚な観察と推理に依ってすら、頸部に索溝の残っていない点と言い、あの皮膚の擦り破れ方と言い、第二第三の擦過傷を与えたと同一の太く粗雑な兇器である事は容易に頷《うなず》き得る筈だ。
従って私は、これらの個々の事実の検討から、私の分類した三つの瘡痕に加えられたそれぞれの兇器が、犯行に使用された唯一の兇器である事に帰納する。だから被害者の持っていたあの幾個所かの擦過傷は格闘の際現場に転っていた[#「現場に転っていた」に傍点]奇妙な物体に依って外部的に受けたものではなくて犯人の手から[#「犯人の手から」に傍点]執拗に襲い掛って来る蛇の様な兇器に依って与えられたものなのだ。だが、推理を今後の過程に進めるに当って最も興味深い存在をなすものは、あの掌中に残された奇怪極まる擦過傷だよ。まさか君は、死人が綱引き遊びをしていたなんて言うまいね。
次に、あの無数の軽い擦過傷が明かに格闘に依って与えられた軽傷である事は、まさしく疑う余地がない。しからば格闘は、従って犯行は、どこで行われたか? 勿論、屋外であれ程判然たる他殺の痕跡を加えて殺害したものを、わざわざ運び込んで屋上から投げ墜《おと》し墜死に見せかけよう、なんてナンセンスは信じられない。しかもこの場合厳重な戸締りの問題がある。しからば次のデパートの屋内で犯行が行われたとの解釈はどうか? この解釈が肯定されるためには、被害者が殺害されるまでの格闘の際、一言の救助をも求めなかった、と言う驚くべき事実だ。従って犯行は最後の場所、即ち屋上で行わ
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