「若僧震え上《あが》って了《しま》った」とか「今夜は久し振りに飲める」とか言う二人の間の密やかな会話を覚えているだろう? あの会話は、あの晩二人の間に「若僧」と呼ばれた一人の第三者が関係していた事を意味する。勿論、その第三者と言う男は、二人よりも年若《としわか》であったろうし、そして又――』
 喬介は茲《ここ》で語《ことば》を切ると、腰を屈めて何か鉄屑の間から拾いあげた。よく見ると鉄屑の油で穢れてはいるが、まだ新しい中味の豊富な広告マッチだ。レッテルの図案の中に「小料理・関東煮」としてある。喬介は微笑しながら再び語を続けた。
『そして又その男と言うのはだね。恐らく此の頃|何処《どこ》か、多分西の方へでも旅行した事のある男だ。どうしてって、ほら君の見る通りこのナイフの側に落ちていた広告マッチのレッテルには「小料理・関東煮」としてある。関東煮とは、吾々《われわれ》東京人の所謂《いわゆる》おでん[#「おでん」に傍点]の事だよ。地方へ行《ゆ》くとおでん[#「おでん」に傍点]の事を好《よ》く関東煮と呼ぶ。殊に関西では、僕自身|度々《たびたび》聞いた名称だよ。従って、このマッチは、レッテルの文案に「関東煮」としてあるだけで、充分に東京の料理店のマッチでない事は判《わか》る筈《はず》だ。――』
『いや、もういい。よく判ったよ。』
 私は喬介の推理に、多少の嫉《ねた》ましさを感じて口を入れた。喬介は、先程のジャックナイフをハンカチに包んで広告マッチと一緒にポケットへ仕舞い込みながら、私の肩に手を置いた。
『じゃあ君。これから一つ機械油の――あの被害者の背中に引ッこすッた様に着いていたどろりとした黒い油のこぼれている処《ところ》を探そう。』
 そこで私は、喬介に従って大きな鉄工場の建物の中へ這入《はい》った。
 回転する鉄棒、ベルト、歯車、野獣の様な叫喚《きょうかん》を挙《あ》げる旋盤機や巨大なマグネットの間を、一人の労働者に案内されながら私達は油のこぼれた場所を探し廻った。が、喬介の推理を受入れて呉《く》れる様な場所は見当らない。で、がっかりした私達は、工場を出て、今度は、二つの乾船渠《ドライ・ドック》の間の起重機《クレーン》の林の中へやって来た。其処《そこ》で、大きな鳥打帽《ハンチング》を冠《かぶ》った背広服に仕事着の技師らしい男に行逢《ゆきあ》うと、喬介は早速《さっそく》その男を捕《とら》えて切り出した。
『少しお訊《たず》ねしますがね。この造船所の構内で、茲《ここ》一両日の間に、誰《だ》れか誤って機械油をぶちまけて了《しま》った、と言う様な事はなかったでしょうか? ほんの一寸《ちょっと》した事でいいんですが――』
 喬介の突拍子もない細かな質問を受けて、若い技師はいささか面喰《めんくら》った様子を見せたが、間もなく私達の眼の前の船渠《ドック》を指差しながら口を切った。
『その二号|船渠《ドック》で、昨日油差しを引っくりかえした様でした。何《な》んでしたら御案内しましょう。』
 技師はそう言って、私達を連れて歩き出した。間もなく私達は、その大きな空の乾船渠《ドライ・ドック》の底へ梯子伝いに降り立った。技師は、海水を堰塞《えんそく》している船渠《ドック》門の扉船《とせん》から五六|間《けん》隔《へだた》った位置にやって来ると、コンクリートの渠底《きょてい》の一部を指差しながら私達を振り返った。
『こ奴《いつ》なんですがね。――』
 成る程|其処《そこ》には、三尺四方|位《くら》いの機械油の溜《たま》りが、一度水に浸されたらしく半《なか》ばぼやけて残っている。その溜りの中央が、丁度《ちょうど》被害者の背中でこすり取られたらしく、白っぽいコンクリートの床を見せて、溜りを左右二つに割っている。
『誰がこぼしたんです?』
『水夫です。五日前の朝から昨晩まで修繕の為《た》めに入渠《にゅうきょ》していた帝国郵船の貨物船《カーゴ・ボート》で、天祥丸《てんしょうまる》と言う船のセーラーです。推進機《スクリュー》の油差しに出掛けて誤ってこぼしたらしいです。』
『ああそうですか――』
 こう言って喬介は、何か失望したらしく首をうなだれて欝《ふさ》ぎ込んで了《しま》ったが、軈《やが》て何思ったか元気で顔を挙《あ》げると、
『その天祥丸と言う汽船《ふね》は、何処《どこ》からやって来たんです?』
『神戸|出帆《しゅっぱん》です。』技師が答えた。
『神戸――? で、寄港地は?』
『四日市だけです。』
『エッ! 四日市? そうだ。』
 喬介は思わず叫び声を挙げると、何《な》にか思い出した様にポケットの中へ手を突込《つきこ》んで、先程の広告マッチを取り出し、ハンカチで穢《よご》れを拭《ぬぐ》って一寸《ちょっと》の間《ま》レッテルに見入っていたが、間もなく元気で話を続けた。
『で、その天祥丸って言う船は、今|何処《どこ》にいるんですか?』
『今は芝浦に碇泊《ていはく》しています。何《な》んでも荷物の積込みが遅れたとかって船主《キーパー》の督促で、昨晩日が暮れてから修繕が終ると、その儘《まま》大急ぎで小蒸汽《こじょうき》に曳航《えいこう》されて出渠《しゅっきょ》しました。そうですねえ、今日の正午だそうですから、もう四時間もすると出帆です。』
『有難う。で、その船は五日前の朝|入渠《にゅうきょ》したと言いましたね? すると、あの被害者が行方不明になった、つまり殺された日の朝ですね?』
『ええそうです。』
『じゃあ構内の宿泊所には、その晩天祥丸の船員が泊っていた訳ですね? つまり、夜業はなくても、この造船所の構内には、その晩天祥丸の船員がいたんですね?』
『ええ。まあ、少々はですな。』
『と言うと?』
『詰《つま》り、八〇パーセントは淫売婦《おんな》の処《ところ》――という意味です。』
『好《よ》く判《わか》りました。で、その日天祥丸以外に入渠船《にゅうきょせん》がありましたか?』
『なかったです。』
『有難う。』
 技師は喬介との会話が終ると、一号|船渠《ドック》に入渠船《にゅうきょせん》があるからと言って、向うの船渠《ドック》の方へ出掛けて行った。そこで私も喬介に誘われて、面白半分に技師の後に従った。
 一号|船渠《ドック》の渠門《きょもん》の前には、千トン位いの貨物船《カーゴ・ボート》が、小蒸汽《こじょうき》に曳航されて待っていた。私達が着くと間もなく、扉船《とせん》の上部海水注入孔のバルブが開いて、真ッ白に泡立った海水が、恐《おそろ》しい唸《うなり》を立てて船渠《ドック》の中へ迸出《ほんしゅつ》し始めた。次《つ》いで径二尺五寸程の大きな下部注水孔のバルブも開いて、吸い込まれて面喰《めんくら》った魚を渠底《きょてい》のコンクリートへ叩き付け始めた。その小気味良い景色にうっとり見惚《みと》れていた私の肩を、喬介が軽く叩いた。
『君。船の入渠《にゅうきょ》する所でも見ながら暫く待っていて呉《く》れ給《たま》えね。僕はこれから、ちょいと犯人を捕《とら》えて来る――』
 喬介はそう言い残した儘《まま》、呆気に取られている私を見返りもせずプイと構内を飛び出して了《しま》った。仕方がないので私は、船渠《ドック》の開閉作業を見物しながら喬介の帰りを待つ事にした。
 一時間して船渠《ドック》が満水になっても、喬介はまだ帰らない。扉船《とせん》内の海水が排除されて、その巨大な鋼鉄製の扉船が渠門《きょもん》の水上へポッカリ浮び挙《あが》っても、それからその浮び挙った扉船を小船に曳《ひ》かして前方の海上へ運び去り、小蒸汽《こじょうき》に曳航された入渠船が、渦巻きの静まり切らぬ船渠《ドック》内へ引っ張り込まれても、喬介はまだ来ない。渠門に再び扉船がはめ込まれて、外海と劃別《かくべつ》された船渠《ドック》内の海水が、ポンプに依《よ》って排除され始めた頃に、やっと表門の方から一台の自動車が這入《はい》って来た。喬介かと思ったら警視庁の車である。さて、事件が大分《だいぶ》複雑化して来たなと一人で決め込んだ私の眼の前へ、車の扉《ドア》を排《はい》して元気よく飛び出した男は、ナント吾《わ》が親友青山喬介だ。驚いた私の前へ、続いて現れたのは、ガッチリ捕縄《ほじょう》を掛けられた、船員らしい色の黒い何処《どこ》となく凄味のある慓悍《ひょうかん》な青年だ。二人の警官に護《まも》られている。
 喬介に伴《ともな》われた一行が、二号|船渠《ドック》の海に面した岸壁の辺《あた》りまで来た時に、どきまぎ[#「どきまぎ」はママ]しながら彼等について行った私に向って、初めて喬介が口を切った。
『君。天祥丸の水夫長、そして殺人犯人矢島五郎君を紹介するよ。』
 喬介はそう言って、捕縄を掛けられたセーラーを私に引合《ひきあわ》した。私は、まだ犯人を山田源之助だと思っていたので、と言うよりも私は、ナイフに彫《ほ》り込まれた頭文字《イニシャル》に依《よ》って私の作り上げた推理を、まだ意地悪く信じていたかったので、矢島五郎――と聞いた時に、いささか昂奮《こうふん》して了《しま》った。が、間もなく喬介は縛られた男を私達から遠去《とおざ》けて、喋り始めた。
『先程技師の人から、天祥丸が四日市へ寄港したと聞いた時に、僕はふとあの広告マッチの関東煮としてある方ではなく、その裏側のレッテルに、ヨの字を冒頭にした幾つかの片仮名が、ゴテゴテ小いさく[#「小いさく」はママ]並んでいたのを思い出したんだ。で、早速取り出して穢《よご》れを拭って見たのさ――』と喬介は先程のマッチを私の眼の前へ差し出しながら『見給え。「勘八」と言う店名の下に、小さく「ヨッカイチ会館隣り」としてあるだろう?』
『うむ。』
 私は大きく頷《うなず》いた。
『で、天祥丸の乗組員でこのマッチを持った男と、行方不明になった二人の男とが、あの晩旋盤工場の裏の鉄屑の捨場で行《ゆ》き逢《あ》った、と言う風《ふう》に僕は推理を進めた。ところで、いいかい君。山田源之助は、中気で、而《しか》も右腕に怪我をしていた筈《はず》だ。その源之助が、あれ丈《だ》け鮮《あざやか》に喜三郎の心臓を突き刺す事が出来ると思うかい? 一寸《ちょっと》六ヶ|敷《し》い話だ。そこで僕は、先程|此処《ここ》を出ると早速《さっそく》山田源之助の遺族を訪ねて、源之助が右利きであった事を確《たしか》めて見た。ところが其処《そこ》で一層都合の良い事には、喜三郎と源之助の二人は、三年|前《ぜん》まで、どうだい君、天祥丸の水夫をしていたんだぜ。そこで僕は充分の自信を持って芝浦まで出掛け、予定の行動を取ったんさ。外でもない。まだ出帆前の天祥丸の船長に逢って、頭文字《イニシャル》の配列がG・Yとなる男が乗組員の中に何人あるか調べて貰った。すると事務長の八木稔と言うのと、この水夫長の矢島五郎君の二人だ。ところが、事務長の八木稔の方はもう五十近い親爺《おやじ》だ。それに引き換えて水夫長の矢島五郎君は、船長も驚いている程の凄腕なんだが、年はまだ二十九歳の所謂《いわゆる》例の「若僧」と言われた部類に属しとる。で、僕は早速《さっそく》矢島君にこっそりと面会して、あのジャックナイフを買い取って呉《く》れんかとワタリ[#「ワタリ」に傍点、底本では「タリ」に傍点]を付けて見たんさ。すると、ナイフを見た矢島君は、途端にダアとなって震えながら百圓札を一枚気張って呉《く》れたよ。で、僕は札を受取る代《かわ》りに、矢島君に捕縄《ほじょう》を掛けさして貰ったんさ。先生、多少は駄々を捏《こ》ねたがね。なに、大した事はなかったよ。』
 喬介はそう言って、笑いながら右腕の袖口《カフス》をまくし挙《あ》げて見せた。手首の奥に白い繃帯《ほうたい》、赤い血を薄く滲《にじ》ませて巻かれてあった。
『じゃあ一体、山田源之助はどうなったと言うんだい?』
 ごっくりと唾《つば》を飲み込みながら私が訊《たず》ねた。[#底本ではこの行1字下げしていない]
『さあ、それなんだがね――』
 喬介は振り返って、遠去《とおざ》けてあった矢島五郎の側まで歩《あゆ》み寄《よ》ると、
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