を捕《とら》えて切り出した。
『少しお訊《たず》ねしますがね。この造船所の構内で、茲《ここ》一両日の間に、誰《だ》れか誤って機械油をぶちまけて了《しま》った、と言う様な事はなかったでしょうか? ほんの一寸《ちょっと》した事でいいんですが――』
 喬介の突拍子もない細かな質問を受けて、若い技師はいささか面喰《めんくら》った様子を見せたが、間もなく私達の眼の前の船渠《ドック》を指差しながら口を切った。
『その二号|船渠《ドック》で、昨日油差しを引っくりかえした様でした。何《な》んでしたら御案内しましょう。』
 技師はそう言って、私達を連れて歩き出した。間もなく私達は、その大きな空の乾船渠《ドライ・ドック》の底へ梯子伝いに降り立った。技師は、海水を堰塞《えんそく》している船渠《ドック》門の扉船《とせん》から五六|間《けん》隔《へだた》った位置にやって来ると、コンクリートの渠底《きょてい》の一部を指差しながら私達を振り返った。
『こ奴《いつ》なんですがね。――』
 成る程|其処《そこ》には、三尺四方|位《くら》いの機械油の溜《たま》りが、一度水に浸されたらしく半《なか》ばぼやけて残っている。その溜りの中央が、丁度《ちょうど》被害者の背中でこすり取られたらしく、白っぽいコンクリートの床を見せて、溜りを左右二つに割っている。
『誰がこぼしたんです?』
『水夫です。五日前の朝から昨晩まで修繕の為《た》めに入渠《にゅうきょ》していた帝国郵船の貨物船《カーゴ・ボート》で、天祥丸《てんしょうまる》と言う船のセーラーです。推進機《スクリュー》の油差しに出掛けて誤ってこぼしたらしいです。』
『ああそうですか――』
 こう言って喬介は、何か失望したらしく首をうなだれて欝《ふさ》ぎ込んで了《しま》ったが、軈《やが》て何思ったか元気で顔を挙《あ》げると、
『その天祥丸と言う汽船《ふね》は、何処《どこ》からやって来たんです?』
『神戸|出帆《しゅっぱん》です。』技師が答えた。
『神戸――? で、寄港地は?』
『四日市だけです。』
『エッ! 四日市? そうだ。』
 喬介は思わず叫び声を挙げると、何《な》にか思い出した様にポケットの中へ手を突込《つきこ》んで、先程の広告マッチを取り出し、ハンカチで穢《よご》れを拭《ぬぐ》って一寸《ちょっと》の間《ま》レッテルに見入っていたが、間もなく元気で話を続けた。
『で、その天祥丸って言う船は、今|何処《どこ》にいるんですか?』
『今は芝浦に碇泊《ていはく》しています。何《な》んでも荷物の積込みが遅れたとかって船主《キーパー》の督促で、昨晩日が暮れてから修繕が終ると、その儘《まま》大急ぎで小蒸汽《こじょうき》に曳航《えいこう》されて出渠《しゅっきょ》しました。そうですねえ、今日の正午だそうですから、もう四時間もすると出帆です。』
『有難う。で、その船は五日前の朝|入渠《にゅうきょ》したと言いましたね? すると、あの被害者が行方不明になった、つまり殺された日の朝ですね?』
『ええそうです。』
『じゃあ構内の宿泊所には、その晩天祥丸の船員が泊っていた訳ですね? つまり、夜業はなくても、この造船所の構内には、その晩天祥丸の船員がいたんですね?』
『ええ。まあ、少々はですな。』
『と言うと?』
『詰《つま》り、八〇パーセントは淫売婦《おんな》の処《ところ》――という意味です。』
『好《よ》く判《わか》りました。で、その日天祥丸以外に入渠船《にゅうきょせん》がありましたか?』
『なかったです。』
『有難う。』
 技師は喬介との会話が終ると、一号|船渠《ドック》に入渠船《にゅうきょせん》があるからと言って、向うの船渠《ドック》の方へ出掛けて行った。そこで私も喬介に誘われて、面白半分に技師の後に従った。
 一号|船渠《ドック》の渠門《きょもん》の前には、千トン位いの貨物船《カーゴ・ボート》が、小蒸汽《こじょうき》に曳航されて待っていた。私達が着くと間もなく、扉船《とせん》の上部海水注入孔のバルブが開いて、真ッ白に泡立った海水が、恐《おそろ》しい唸《うなり》を立てて船渠《ドック》の中へ迸出《ほんしゅつ》し始めた。次《つ》いで径二尺五寸程の大きな下部注水孔のバルブも開いて、吸い込まれて面喰《めんくら》った魚を渠底《きょてい》のコンクリートへ叩き付け始めた。その小気味良い景色にうっとり見惚《みと》れていた私の肩を、喬介が軽く叩いた。
『君。船の入渠《にゅうきょ》する所でも見ながら暫く待っていて呉《く》れ給《たま》えね。僕はこれから、ちょいと犯人を捕《とら》えて来る――』
 喬介はそう言い残した儘《まま》、呆気に取られている私を見返りもせずプイと構内を飛び出して了《しま》った。仕方がないので私は、船渠《ドック》の開閉作業を見物しながら喬介の帰りを
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