待つ事にした。
一時間して船渠《ドック》が満水になっても、喬介はまだ帰らない。扉船《とせん》内の海水が排除されて、その巨大な鋼鉄製の扉船が渠門《きょもん》の水上へポッカリ浮び挙《あが》っても、それからその浮び挙った扉船を小船に曳《ひ》かして前方の海上へ運び去り、小蒸汽《こじょうき》に曳航された入渠船が、渦巻きの静まり切らぬ船渠《ドック》内へ引っ張り込まれても、喬介はまだ来ない。渠門に再び扉船がはめ込まれて、外海と劃別《かくべつ》された船渠《ドック》内の海水が、ポンプに依《よ》って排除され始めた頃に、やっと表門の方から一台の自動車が這入《はい》って来た。喬介かと思ったら警視庁の車である。さて、事件が大分《だいぶ》複雑化して来たなと一人で決め込んだ私の眼の前へ、車の扉《ドア》を排《はい》して元気よく飛び出した男は、ナント吾《わ》が親友青山喬介だ。驚いた私の前へ、続いて現れたのは、ガッチリ捕縄《ほじょう》を掛けられた、船員らしい色の黒い何処《どこ》となく凄味のある慓悍《ひょうかん》な青年だ。二人の警官に護《まも》られている。
喬介に伴《ともな》われた一行が、二号|船渠《ドック》の海に面した岸壁の辺《あた》りまで来た時に、どきまぎ[#「どきまぎ」はママ]しながら彼等について行った私に向って、初めて喬介が口を切った。
『君。天祥丸の水夫長、そして殺人犯人矢島五郎君を紹介するよ。』
喬介はそう言って、捕縄を掛けられたセーラーを私に引合《ひきあわ》した。私は、まだ犯人を山田源之助だと思っていたので、と言うよりも私は、ナイフに彫《ほ》り込まれた頭文字《イニシャル》に依《よ》って私の作り上げた推理を、まだ意地悪く信じていたかったので、矢島五郎――と聞いた時に、いささか昂奮《こうふん》して了《しま》った。が、間もなく喬介は縛られた男を私達から遠去《とおざ》けて、喋り始めた。
『先程技師の人から、天祥丸が四日市へ寄港したと聞いた時に、僕はふとあの広告マッチの関東煮としてある方ではなく、その裏側のレッテルに、ヨの字を冒頭にした幾つかの片仮名が、ゴテゴテ小いさく[#「小いさく」はママ]並んでいたのを思い出したんだ。で、早速取り出して穢《よご》れを拭って見たのさ――』と喬介は先程のマッチを私の眼の前へ差し出しながら『見給え。「勘八」と言う店名の下に、小さく「ヨッカイチ会館隣り」としてあるだろう?』
『うむ。』
私は大きく頷《うなず》いた。
『で、天祥丸の乗組員でこのマッチを持った男と、行方不明になった二人の男とが、あの晩旋盤工場の裏の鉄屑の捨場で行《ゆ》き逢《あ》った、と言う風《ふう》に僕は推理を進めた。ところで、いいかい君。山田源之助は、中気で、而《しか》も右腕に怪我をしていた筈《はず》だ。その源之助が、あれ丈《だ》け鮮《あざやか》に喜三郎の心臓を突き刺す事が出来ると思うかい? 一寸《ちょっと》六ヶ|敷《し》い話だ。そこで僕は、先程|此処《ここ》を出ると早速《さっそく》山田源之助の遺族を訪ねて、源之助が右利きであった事を確《たしか》めて見た。ところが其処《そこ》で一層都合の良い事には、喜三郎と源之助の二人は、三年|前《ぜん》まで、どうだい君、天祥丸の水夫をしていたんだぜ。そこで僕は充分の自信を持って芝浦まで出掛け、予定の行動を取ったんさ。外でもない。まだ出帆前の天祥丸の船長に逢って、頭文字《イニシャル》の配列がG・Yとなる男が乗組員の中に何人あるか調べて貰った。すると事務長の八木稔と言うのと、この水夫長の矢島五郎君の二人だ。ところが、事務長の八木稔の方はもう五十近い親爺《おやじ》だ。それに引き換えて水夫長の矢島五郎君は、船長も驚いている程の凄腕なんだが、年はまだ二十九歳の所謂《いわゆる》例の「若僧」と言われた部類に属しとる。で、僕は早速《さっそく》矢島君にこっそりと面会して、あのジャックナイフを買い取って呉《く》れんかとワタリ[#「ワタリ」に傍点、底本では「タリ」に傍点]を付けて見たんさ。すると、ナイフを見た矢島君は、途端にダアとなって震えながら百圓札を一枚気張って呉《く》れたよ。で、僕は札を受取る代《かわ》りに、矢島君に捕縄《ほじょう》を掛けさして貰ったんさ。先生、多少は駄々を捏《こ》ねたがね。なに、大した事はなかったよ。』
喬介はそう言って、笑いながら右腕の袖口《カフス》をまくし挙《あ》げて見せた。手首の奥に白い繃帯《ほうたい》、赤い血を薄く滲《にじ》ませて巻かれてあった。
『じゃあ一体、山田源之助はどうなったと言うんだい?』
ごっくりと唾《つば》を飲み込みながら私が訊《たず》ねた。[#底本ではこの行1字下げしていない]
『さあ、それなんだがね――』
喬介は振り返って、遠去《とおざ》けてあった矢島五郎の側まで歩《あゆ》み寄《よ》ると、
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