のをくれてやりながら、下り線を越えて彼等の真ン前から少しばかり西へ寄った上り線路の上へ立止ると、白豚へ再び餌を与えてそれからクルリと周囲を見廻したんです。――どんな男だか、暗くてサッパリ判りません。
 やがて豚盗人は仕事に掛りました。五日前に此処で案内役の保線課員が彼等に話した推定は全く正しく、その通りに黒い男は豚を縛って、そしてその哀れな犠牲者の前へ沢山餌をバラ蒔いているんです。二人は静かに立上りました。そしてソロリソロリ歩き始めました。
 だが、ナンと言う事でしょう。ものの二十歩も進まない内に、吉岡の靴の下の闇の中で枯枝らしい奴が大きな音を立てたんです。吉岡はハッとなると、もう夢中で線路めがけて馳け出しました。
 瞬間――豚盗人は、一寸松林の方を振向いて、何でもこう鳥の鳴く様な異様な叫びを挙げると、いきなり円《まる》くなって線路伝いに馳け出したんです。吉岡は直ぐに線路に飛び出してその黒い影を追跡しました。けれども二丁と走らない内に、もう彼はその影を見失ってしまったんです。やがて、
「お――い!」
 と、助役の呼んでいる声が聞えました。
 で、吉岡は、何だか責任みたいなものを感じながらも、ま、仕方なしにカーブの処まで戻って来ました。
 すると、「なに、構わないよ」と片山助役が呼び掛けました。「急《あせ》る事はないさ。それよりも、まず、この豚公を御覧よ……どうも僕は、ただ縄で縛って置くだけではそう何度もうまい工合に轢かれる筈はない、と最初から睨んでいたんだ」
 見ると、成る程豚は少し変です。四足を妙な恰好に踏ン張って時々頭を前後に動かしながら、苦しそうに喉を鳴らして盛んに何かを吐出しているんです。
「毒を飲まされたのさ」
 そう言って助役は、結んである縄を解き始めました。そして間もなく二人は、可哀想な豚を引摺る様にして、自動車《くるま》の待たしてある方角へ松林の中を歩き出しました。けれども途中幾度か激しい吐瀉《としゃ》に見舞われた豚は、自動車のある処まで来るととうとう動かなくなってしまいました。痙攣《けいれん》を起したんです。で、仕方なく側の立木へ縛って置いて、驚いている運転手へ彼等だけB町の派出所へ遣《や》る様に命じました。そして恰度二人が自動車へ乗った時に松林の向うを疾《はし》る汽車の音が聞えて来ると、
「あれがD50・444号の貨物列車だよ」
 と、助役が言いました。
 それから役等は[#「役等は」はママ]B町へ出掛けて安藤巡査に豚の処置を依頼すると、そのまま自動車《くるま》で、もうすっかり明け放れたすがすがしい朝の郊外を、H駅まで疾《はし》る事になったんです。
 車中で、吉岡は助役に訊ねました。
「あの豚は殺して解剖するんですか?」
 すると助役は、
「ううん。もう豚公には用はないよ。僕は、彼奴《あいつ》が食余《くいあま》した餌と毒を、手に入れたからね」とそう言って外套《オーバー》のポケットから、三、四枚の花の様な煎餅《せんべい》を出して見せました。それは斑《まだら》に赤や青の着色があって、その表面には小豆《あずき》を二つに割った位の小さな木の実みたいなものが一面に貼り着けてあるんです。
「先刻《さっき》の冒険の」と助役が言いました。「一番|主《おも》だった僕の目的と言うのは、始めからこいつにあったのさ。もっともこんな煎餅を手に入れようとは思わなかったがね。つまり僕は、――盗んだ豚を殺してからではとても一人では持てないから、生かしたままで線路まで連れて来て、さてそこで上手に汽車に轢かせる様にするためには、単に縄を枕木の端の止木《チョック》の釘と反対側に立っている里程標《マイル・ポスト》との間へ渡して、その真ン中へ豚を縛った位では到底三遍も四遍も成功する事は出来まい。だから当然、盗んだ男は、線路の上へ縛りつけてから、豚を殺すか、動けなくする必要がある。と僕は思ったんだ。ところが鈍器で殴り殺すとか、又は刃物で突殺すとか、或は劇毒で殺すとか、とにかくそうした手段で即死させるんだったなら、なにもあんなに縛り着けて置く必要はない。殺して、そのまま線路の上へ投げ出して置けばいい筈だ。それにもかかわらず犯人はそうしていない。で、僕はいまこう考える――この干菓子の中にある毒は急激な反応を持ったものではなくて、犯人は途々《みちみち》毒の入った餌で豚を釣りながら線路の上まで連れて来ると、それから軌条《レール》の間へ動かない様に縛って尚|幾何《いくら》かの毒餌《どくえ》を与える。次第に毒の作用が始まる。D50・444号がやって来る――とまあ大体そんな風にね。……だがそれにしても、この干菓子は一体何だろう? 僕はこんな玩具《おもちゃ》みたいな煎餅は始めて見る。君、知ってるかい?」
 と、そこで吉岡は早速首を横に振りました。そして間もなくH駅へ帰り着いた二人は、機関庫の事務室を根拠地にして、あの冒険で獲得した妙な手掛りに対する研究を始めたんです。
 最初の日は、助役は一日中落着いて室内で例の干菓子を相手にあれやこれやと考え廻していた様でしたが、二日目にはとうとう外出して調べ始めました。そして夕方に帰って来て仕出しの料理で晩飯を終えると、早速吉岡ともう一人の調査員を捕えて、こんな事を言ったんです。
「君達、明朝でいいから一寸B町まで行ってくれ給え。外《ほか》でもないんだが……ま、とにかく一応説明しよう」そう言って例の干菓子を二人の前に並べながら、「僕は今までかかって調べた結果、やっとこの煎餅の正体が判ったよ。この奇妙な子供の玩具の小さな風車みたいな、如何にも不味《まず》そうな煎餅は、普通に食用に供するものではなく、干菓子の中でも一番下等な焼物の一種で、所謂|飾《かざり》菓子と言う奴だ。そしてこの地方では、しかも一般にこの菓子を『貼《はり》菓子』と呼んで……ほら、見た事があるだろう?……葬儀用専門の飾菓子になってるんだ。ところで、この煎餅の表面の、後から糊で貼り着けたらしい小さな小豆を砕いた様な木の実だが、色々調べた結果、学名は日本産|大茴香《だいういきょう》、普通に莽草《しきみ》又はハナシバなぞと呼ばれる木蘭《もくらん》科の常緑小喬木の果実であってな。シキミン酸と呼ぶ有毒成分を持っているんだ。シキミン酸と言うのは、ピクロトキシン属の痙攣毒とか言う奴で、一寸専門的になるが、その生理化学的な反応は、延髄の痙攣中枢って奴を刺戟する事に依って、恰度|癲癇《てんかん》の様な痙攣を起し、その痙攣中に一時意識を失うのだ。時としてはそのまま死ぬ事もあるが、ま、猛毒ではないそうだ。日本内地でも中部以南の山野にいくらも自生しているものだよ。ところで、もうひとつこの莽草の樹の用途なんだがね……こいつが実に面白いんだ……と言うのは、昔から仏前用として墓地に植えたり、又地方に依っては、その枝葉を、棺桶の中へ死人と一緒に詰めたりする外、一般には、その葉を乾したり樹皮を砕いたりして、仏前や墓前で燻《た》く、あの抹香《まっこう》を製造する原料にされているんだ。判るかい。つまりこの煎餅と言い、莽草の実と言い、二つながら手掛《てがかり》としては非常に特殊な代物である事に注意し給え。ところで、話はあの豚公に戻るんだが、もしも僕があの場合の犯人であったなら、なにもこんな風変りな品物を使わなくたって、例えば、人参でもいい、ごくありふれた餌で豚公を連れ出し、さて線路上へ来て、縄で縛るなんて面倒な事はせず、玄翁《げんのう》か何かで一度に叩ッ殺し、そのまま線路上へ投げ出して置く――が、しかし、この場合の犯人は、既に僕等も見て来た様に、実に不自然な、むしろ芝居|染《じ》みた道具立をしている。ね。ここんとこだよ。こんな風変りな特殊な品物を、しかも毎々利用するのは、それらの品物が、犯人が何よりも簡単に入手出来る様な手近なところに、つまり犯人が、それらの品物を商売している事を意味するんだ。で、僕のお願いと言うのはB町及びB町附近に、あの葬儀用の『貼菓子』と、抹香の製造販売をしている葬具屋が、有るか無いか君達二人に調べて貰いたいんだ」
 とまあそんな訳で、翌朝二人はB町へ出掛けたんです。
 ところが、小さな田舎町の事ですから、巡査派出所、町役場等で問い合せた結果、間もなく片山助役の註文に符合する様な葬具屋の無い事が判りました。
 で、二人の部下は力を落してH駅へ引返すと、助役にその旨を報告しました。すると助役は、意外にも嬉しそうな調子で、こう言うんです。
「多分そうだろうと思っていたよ。いや、それでいいんだ。君達の留守中に、僕は機関庫へ行って、あの『葬式《とむらい》機関車』の『オサ泉《せん》』が、いつも花環を買う店は何処だと訊いて見たら、直ぐ機関庫の裏手附近の、H市の裏町にある十方舎《じっぽうしゃ》と呼ぶ葬具屋である事が判ったんだ。そしてしかもその店では、『貼菓子』は勿論、抹香の製造販売もしているらしい事が判ったんだ。これから直ぐに出掛けよう。そして直接当って調べた結果、十方舎と、B町の何か――との間に、一週に一度ずつ何等かの関係の有る事さえ判れば、もう事件は、最も合理的に一躍解決へ進む事になるんだ」
 と、そこで早速彼等は出掛けました。
 そして機関庫の裏を廻って、間もなく薄穢い二階建の葬具屋――十方舎へやって来ました。
 助役は先に立って這入ると、早速馴れた調子で小さな花環を一つ註文しました。
 成る程、その店の主人らしい、頸の太い、禿頭の先端《さき》の尖《と》ンがった、赭《あか》ら顔の五十男が、恐ろしく憂鬱な表情《かお》をしながら、盛んに木の葉を乾かした奴を薬研《やげん》でゴリゴリこなしていましたが、助役の註文を受けると、早速緑色のテープを巻いた小さな円い花環の藁台《わらだい》へ、白っぽい造花を差し始めたんです。そこで片山助役はギロリと室内を見廻しました。
 ――その仕事場の後には、成る程「貼菓子」らしい品物を並べた大きな硝子《ガラス》戸棚があって、その戸棚の向うには、奥座敷へ続くらしい障子|扉《ど》が少しばかり明け放してあるんですが、その隙間から、多分この店の娘らしい若い女が、随分妙な姿勢を執《と》っていると見えて、ヘンな高さの処から、こう顔だけ出して――もっともその女は、彼等がこの店へ這入って来た時から、もうそんな風に顔だけ覗かしていたんですが、こんなにも妙に心を魅《ひ》かれる顔を、助役は始めて見ました。髪は地味な束髪ですが、ポッテリした丸顔で、皮膚は蝋燭の様に白く透通《すきとお》り、鼻は低いが口元は小さく、その丸い両の眼玉は素絹《そぎぬ》を敷いた様に少しボーッとしてはいますが、これが又何と言いますか、恐ろしく甘い魅力に富んでいるんです。そして助役の一行を見ると、如何にもそれと判る無理なつくり笑いをしながら、とんきょうな声で、「いらっしゃいませ」と挨拶したんです。
 ――この事は後程《のちほど》になって、何度も何度も聞かされた事なんですが。とにかく片山助役は、その娘を始めてチラッと見た時に、もう一生忘れる事の出来ない様な何ンとも彼《か》とも言いようのないいやあな[#「いやあな」に傍点]印象を、眼のクリ玉のドン底へハッキリと焼きつけられたんです。そしてこの奇妙な娘と言い、恐ろしく面ッ構えの変った親爺《おやじ》と言い……ははあン、成る程この家《うち》には、何か深い秘密めいた事情があるんだな……とまあ、直感って奴ですな、それを感じたんです。――いや、どうも私は女の話になると、つい長くなっていけません。
 さて、暫く黙ったままでそれとなく店中を眺め廻していた片山助役は、やがてその眼に喜びの色を湛えて、直ぐ彼等の横にあった水槽《みずおけ》の中の美しい色々の草花を指差しながら、盛んに花環を拵えている親爺へ、言いました。
「小父《おじ》さん。綺麗な花ですね。こんな綺麗な奴が、この寒空に出来るんですか?」
 すると親爺は一寸顔を挙げて、
「出来ますとも。B町の農蚕学校の温室でね――。土曜日の晩方《ばんがた》に行けば、貴方《あなた》達にだって売ってくれますよ。……さあ、出来上りました。六十銭頂
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