法王の祈祷
RECIT DU PAPE INNOCENT 3[#「3」はローマ数字、1−13−23]
マルセル・シュヲブ Marcel Schwob
上田敏訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)脱落《はげお》ちた

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一隅|金薄《きんぱく》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔RE'CIT DU PAPE INNOCENT〕
アクセント分解についての詳細は下記URLを参照してください
http://aozora.gr.jp/accent_separation.html
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 香煙と法衣とより離れて、わが殿中の一隅|金薄《きんぱく》の脱落《はげお》ちたこの一室に来れば、ずつと気やすく神と語ることが出来る。こゝへ来ては、腕を支へられずに、わが老来《おいらく》を思ふのである。弥撒《ミサ》を行ふ間は、わが心自づと強く、身も緊《しま》つて、尊い葡萄酒の輝《かゞやき》は眼に満ちわたり、聖なる御油《みあぶら》に思も潤ふが、このわが廊堂の人げない処へ来ると、此世の疲《つかれ》に崩折《くづを》れて、跼《くゞ》まるとも構《かまひ》ない。「見よ、この人を。」主《しゆ》は実に訓令と教書との荘厳を介して、其司祭等の声を聞取り給ふのではあるまい。紫衣も珠玉も絵画も主《しゆ》は確《たしか》に嘉し給はぬ。唯この狭い密房の中より発するわが不束な口籠《くちごもり》ならば、或は愍み給はむも知れぬ。主《しゆ》よ、かゝる老の身の予は、今こゝに白衣を着て御前に伺候《しこう》し奉る。予はインノセンスと呼ばれて、君の知《しろ》しめすが如く、何もえしらぬ。而して予が法王の聖職に在ることを容《ゆる》し給へ、聖職は始より既に制定せられ、予は唯に之に従ふのみ。予がこの高位を設置したのでは無い。予は先づ日の光を、色硝子の荘麗なる反映《てりかへし》に窺はむより、寧ろこの円形の玻璃板に透見るを悦ぶ。世の常の老人の如く、予をして哭《な》かしめ給へ、永遠の夜の波の上に、辛らく差上げたこの蒼白の皺顔を君の御前に向け奉る。わが世の終《はて》の日数の経ちゆく如く、この痩せ細つたる手指をそうて、わが指金《ゆびがね》も滑《すべ》り落ちる。
 神よ、予はこの世に於ける君が御名代として、信仰の浄い葡萄酒を湛へた、このわが凹めたる手を捧げ奉る。世に大なる犯《をかし》がある、極めて大なる犯《をかし》がある。吾等は之を赦免し得る。世に大なる異端がある、極めて大なる異端がある。吾等は仮借せずに之を罰せねばならぬ。白衣を着けて、金薄《きんぱく》も脱落したこの密房に跪く時、予は烈しい苦悶に悩んでゐる。主《しゆ》よ、世の中の犯と異端とは壮大なるわが法王職の領分に属するか、或はまた一介の老人が単に合掌するこの光の圏内に属するかを判じ難いからである。また君が御墓についても悩んでゐる。御墓はいつも異教徒にとり巻れてゐる。これが恢復を計る者も無い。今はたれも聖地に向つて君が御くるすを導くことなく、われらは皆昏々として眠つて居る。騎士は物の具を収め、国王は指揮を忘れた。主《しゆ》よ、われはまた胸をうつて、自ら責めてゐる。弱い哉、老いたる哉。
 廊堂のこの狭い密房に立ちのぼる、このわが囁に聞き給へ、而して御諭を授け給へ。わが臣下等はフランドル、独逸の国々より、馬耳塞、ジエノアの市々に亘つて、不思議の報知を送つて来る。今までに無い異端の宗派が生じた。処々の市々は黙したる裸形の女人等が走り歩るくを見た。この恥知らぬ唖の女等はたゞ天に指すばかり、又数多の狂人は朝《いち》に立つて、世の破滅を説く由。修道の隠者、流浪の学生たちは、いろいろの噂をしあふ。而していかなる心の狂惑にや七千有余の小児等は、それとなく心ひかれて家を棄て出た。御十字架《みくるす》と杖とをもつて、旅に出でた者が七千人もある。何の武器も有つてゐ無い。頼るべ無き幾千人の小児等よ、われらの恥辱よ。彼等は真の教を弁へてゐない。わが臣下どもが尋ね問ふと、一斉に答へて、聖地の恢復の為、イエルサレムへ行くといふ。さりとて海は越されまいと訊けば、否、海は波をわけて干上り、通路を開くに相違無いと答へる。信心深い世間の親たちが、彼等を引留めても夜の間に閂を破り、垣を越えて了ふ。小児等の多くは貴人の落胤である。不憫極まる者どもかな。主《しゆ》よ、是等の嬰児は皆破船の憂目を見て、追つてモハメットの宗門に渡される。
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