神を求めぬ。かの伝奇の老大家は歴史の上に燦爛《さんらん》たる紫雲を曳《ひ》き、この憂愁の達人はその実体を闡明《せんめい》す。
      *
読者の眼頭に彷彿《ほうふつ》として展開するものは、豪壮悲惨なる北欧思想、明暢《めいちよう》清朗なる希臘《ギリシヤ》田野の夢、または銀光の朧々《ろうろう》たること、その聖十字架を思はしむる基督《キリスト》教法の冥想、特に印度《インド》大幻夢|涅槃《ねはん》の妙説なりけり。
      *
黒檀《こくたん》の森茂げきこの世の涯《はて》の老国より来て、彼は長久の座を吾等の傍《かたはら》に占めつ、教へて曰く『寂滅為楽』。
      *
幾度と無く繰返したる大智識の教話によりて、悲哀は分類結晶して、頗《すこぶ》る静寧の姿を得たるも、なほ、をりふしは憤怒の激発に迅雷の轟然《ごうぜん》たるを聞く。ここに於てか電火ひらめき、万雷はためき、人類に対する痛罵《つうば》、宛《あたか》も薬綫《やくせん》の爆発する如く、所謂《いはゆる》「不感無覚」の墻壁《しようへき》を破り了《をはん》ぬ。
      *
自家の理論を詩文に発表して、シォペンハウエルの弁証したる仏法の教理を開陳したるは、この詩人の特色ならむ。儕輩《さいはい》の詩人皆多少憂愁の思想を具《そな》へたれど、厭世観の理義彼に於ける如く整然たるは罕《まれ》なり。衆人|徒《いたづ》らに虚無を讃す。彼は明かにその事実なるを示せり。その詩は智の詩なり。然も詩趣|饒《ゆた》かにして、坐《そぞ》ろにペラスゴイ、キュクロプスの城址《じようし》を忍ばしむる堅牢《けんろう》の石壁は、かの繊弱の律に歌はれ、往々俗謡に傾ける当代伝奇の宮殿を摧《くだ》かむとすなり。
[#地から1字上げ]エミイル・ヴェルハアレン
[#改ページ]

   珊瑚礁《さんごしよう》    ホセ・マリヤ・デ・エレディヤ

[#ここから1字下げ]
波の底にも照る日影、神寂《かみさ》びにたる曙《あけぼの》の
照しの光、亜比西尼亜《アビシニア》、珊瑚の森にほの紅く、
ぬれにぞぬれし深海《ふかうみ》の谷隈《たにくま》の奥に透入《すきい》れば、
輝きにほふ虫のから、命にみつる珠《たま》の華。

沃度《ヨウド》に、塩にさ丹《に》づらふ海の宝のもろもろは
濡髪《ぬれがみ》長き海藻《かいそう》や、珊瑚、海胆《うに》、苔《こけ》までも、
臙脂《えんじ》紫《むらさき》あかあかと、華奢《かしや》のきはみの絵模様に、
薄色ねびしみどり石、蝕《むしば》む底ぞ被《おほ》ひたる。

鱗《こけ》の光のきらめきに白琺瑯《はくほうろう》を曇らせて、
枝より枝を横ざまに、何を尋《たづ》ぬる一大魚《いちだいぎよ》、
光|透入《すきい》る水かげに慵《ものう》げなりや、もとほりぬ。

忽ち紅火飄《こうかひるが》へる思の色の鰭《ひれ》ふるひ、
藍《あゐ》を湛《たた》へし静寂のかげ、ほのぐらき清海波《せいがいは》、
水揺《みづゆ》りうごく揺曳《ようえい》は黄金《おうごん》、真珠、青玉《せいぎよく》の色。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

   床       ホセ・マリヤ・デ・エレディヤ

[#ここから1字下げ]
さゝらがた錦を張るも、荒妙《あらたへ》の白布《しらぬの》敷くも、
悲しさは墳塋《おくつき》のごと、楽しさは巣の如しとも、
人生れ、人いの眠り、つま恋ふる凡《す》べてこゝなり、
をさな児《ご》も、老《おい》も若《わかき》も、さをとめも、妻も、夫も。

葬事《はふりごと》、まぐはひほがひ、烏羽玉《うばたま》の黒十字架《くろじゆうじか》に
浄《きよ》き水はふり散らすも、祝福の枝をかざすも、
皆こゝに物は始まり、皆こゝに事は終らむ、
産屋《うぶや》洩る初日影より、臨終の燭《そく》の火までも、

天離《あまさか》る鄙《ひな》の伏屋《ふせや》も、百敷《ももしき》の大宮内《おほみやうち》も、
紫摩金《しまごん》の栄《はえ》を尽して、紅《あけ》に朱《しゆ》に矜《ほこ》り飾るも、
鈍色《にびいろ》の樫《かし》のつくりや、楓《かへで》の木、杉の床にも。

独《ひと》り、かの畏《おそれ》も悔も無く眠る人こそ善けれ、
みおやらの生れし床に、みおやらの失《うせ》にし床に、
物古りし親のゆづりの大床《おほどこ》に足を延ばして。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

   出征      ホセ・マリヤ・デ・エレディヤ

[#ここから1字下げ]
高山《たかやま》の鳥栖巣《とぐらす》だちし兄鷹《しよう》のごと、
身こそたゆまね、憂愁に思は倦《うん》じ、
モゲルがた、パロスの港、船出して、
雄誥《をたけ》ぶ夢ぞ逞《たく》ましき、あはれ、丈夫《ますらを》。

チパンゴに在りと伝ふる鉱山《かなやま》の
紫摩黄金《しまおうごん》やわが物と遠く、求むる
船の帆も撓《し》わりにけりな、時津風《ときつかぜ》、
西の世界の不思議なる遠荒磯《とほつありそ》に。

ゆふべゆふべは壮大の旦《あした》を夢み、
しらぬ火や、熱帯海《ねつたいかい》のかぢまくら、
こがね幻《まぼろし》通ふらむ。またある時は

白妙の帆船の舳《へ》さき、たゝずみて、
振放《ふりさけ》みれば、雲の果、見知らぬ空や、
蒼海《わだつみ》の底よりのぼる、けふも新星《にひぼし》。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

   夢       シュリ・プリュドン

[#ここから1字下げ]
夢のうちに、農人曰《のうにんいは》く、なが糧《かて》をみづから作れ、
けふよりは、なを養はじ、土を墾《ほ》り種を蒔《ま》けよと。
機織《はたおり》はわれに語りぬ、なが衣《きぬ》をみづから織れと。
石造《いしつくり》われに語りぬ、いざ鏝《こて》をみづから執《と》れと。

かくて孤《ひと》り人間の群やらはれて解くに由なき
この咒詛《のろひ》、身にひき纏《まと》ふ苦しさに、みそら仰ぎて、
いと深き憐愍《あはれみ》垂れさせ給へよと、祷《いの》りをろがむ
眼前《まのあたり》、ゆくての途のたゞなかを獅子はふたぎぬ。

ほのぼのとあけゆく光、疑ひて眼《まなこ》ひらけば、
雄々しかる田つくり男、梯立《はしだて》に口笛鳴らし、
※[#「糸+曾」、第3水準1−90−21]具《はたもの》の※[#「足へん+搨のつくり」、第4水準2−89−44]木《ふみき》もとゞろ、小山田に種《たね》ぞ蒔きたる。

世の幸《さち》を今はた識《し》りぬ、人の住むこの現世《うつしよ》に、
誰かまた思ひあがりて、同胞《はらから》を凌《しの》ぎえせむや。
其日より吾はなべての世の人を愛しそめけり。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

   信天翁《おきのたゆう》     シャルル・ボドレエル

[#ここから1字下げ]
波路遙けき徒然《つれづれ》の慰草《なぐさめぐさ》と船人《ふなびと》は、
八重の潮路の海鳥《うみどり》の沖の太夫《たゆう》を生檎《いけど》りぬ、
楫《かぢ》の枕のよき友よ心|閑《のど》けき飛鳥《ひちよう》かな、
奥津潮騒《おきつしほざゐ》すべりゆく舷《ふなばた》近くむれ集《つど》ふ。

たゞ甲板《こうはん》に据ゑぬればげにや笑止《しようし》の極《きはみ》なる。
この青雲の帝王も、足どりふらゝ、拙《つたな》くも、
あはれ、真白き双翼《そうよく》は、たゞ徒《いたづ》らに広ごりて、
今は身の仇《あだ》、益《よう》も無き二つの櫂《かい》と曳きぬらむ。

天《あま》飛ぶ鳥も、降《くだ》りては、やつれ醜き瘠姿《やせすがた》、
昨日《きのふ》の羽根のたかぶりも、今はた鈍《おぞ》に痛はしく、
煙管《きせる》に嘴《はし》をつゝかれて、心無《こころなし》には嘲けられ、
しどろの足を摸《ま》ねされて、飛行《ひぎよう》の空に憧《あこ》がるゝ。

雲居の君のこのさまよ、世の歌人《うたびと》に似たらずや、
暴風雨《あらし》を笑ひ、風|凌《しの》ぎ猟男《さつを》の弓をあざみしも、
地《つち》の下界《げかい》にやらはれて、勢子《せこ》の叫に煩へば、
太しき双《そう》の羽根さへも起居妨《たちゐさまた》ぐ足まとひ。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

   薄暮《くれがた》の曲《きよく》    シャルル・ボドレエル

[#ここから1字下げ]
時こそ今は水枝《みづえ》さす、こぬれに花の顫《ふる》ふころ。
花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
匂も音も夕空に、とうとうたらり、とうたらり、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦《う》みたる眩暈《くるめき》よ。

花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
痍《きず》に悩める胸もどき、ヴィオロン楽《がく》の清掻《すががき》や、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈《くるめき》よ、
神輿《みこし》の台をさながらの雲悲みて艶《えん》だちぬ。

痍《きず》に悩める胸もどき、ヴィオロン楽《がく》の清掻《すががき》や、
闇の涅槃《ねはん》に、痛ましく悩まされたる優心《やさごころ》。
神輿《みこし》の台をさながらの雲悲みて艶《えん》だちぬ、
日や落入りて溺《おぼ》るゝは、凝《こご》るゆふべの血潮雲《ちしほぐも》。

闇の涅槃《ねはん》に、痛ましく悩まされたる優心《やさごころ》、
光の過去のあとかたを尋《と》めて集むる憐れさよ。
日や落入りて溺るゝは、凝《こご》るゆふべの血潮雲、
君が名残《なごり》のたゞ在るは、ひかり輝く聖体盒《せいたいごう》。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

   破鐘《やれがね》      シャルル・ボドレエル

[#ここから1字下げ]
悲しくもまたあはれなり、冬の夜の地炉《ゐろり》の下《もと》に、
燃えあがり、燃え尽きにたる柴の火に耳傾けて、
夜霧だつ闇夜の空の寺の鐘、きゝつゝあれば、
過ぎし日のそこはかとなき物思ひやをら浮びぬ。

喉太《のどぶと》の古鐘《ふるがね》きけば、その身こそうらやましけれ。
老《おい》らくの齢《とし》にもめげず、健《すこ》やかに、忠《まめ》なる声の、
何時《いつ》もいつも、梵音妙《ぼんのんたへ》に深くして、穏《おほ》どかなるは、
陣営の歩哨《ほしよう》にたてる老兵の姿に似たり。

そも、われは心破れぬ。鬱憂のすさびごこちに、
寒空《さむぞら》の夜《よる》に響けと、いとせめて、鳴りよそふとも、
覚束《おぼつか》な、音《ね》にこそたてれ、弱声《よわごゑ》の細音《ほそね》も哀れ、

哀れなる臨終《いまは》の声《こゑ》は、血の波の湖の岸、
小山なす屍《かばね》の下《もと》に、身動《みじろぎ》もえならで死《う》する、
棄てられし負傷《ておひ》の兵の息絶ゆる終《つひ》の呻吟《うめき》か。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

   人と海     シャルル・ボドレエル

[#ここから1字下げ]
こゝろ自由《まま》なる人間は、とはに賞《め》づらむ大海を。
海こそ人の鏡なれ。灘《なだ》の大波《おほなみ》はてしなく、
水や天《そら》なるゆらゆらは、うつし心の姿にて、
底ひも知らぬ深海《ふかうみ》の潮の苦味《にがみ》も世といづれ。

さればぞ人は身を映《うつ》す鏡の胸に飛び入《い》りて、
眼《まなこ》に抱き腕にいだき、またある時は村肝《むらぎも》の
心もともに、はためきて、潮騒《しほざゐ》高く湧くならむ、
寄せてはかへす波の音《おと》の、物狂ほしき歎息《なげかひ》に。

海も爾《いまし》もひとしなみ、不思議をつゝむ陰なりや。
人よ、爾《いまし》が心中《しんちゆう》の深淵|探《さぐ》りしものやある。
海よ、爾《いまし》が水底《みなぞこ》の富を数へしものやある。
かくも妬《ねた》げに秘事《ひめごと》のさはにもあるか、海と人。

かくて劫初《ごうしよ》の昔より、かくて無数の歳月を、
慈悲悔恨の弛《ゆるみ》無く、修羅《しゆら》の戦酣《たたかひたけなは》に、
げにも非命と殺戮《さつりく》と、なじかは、さまで好《この》もしき、
噫《ああ》、永遠のすまうどよ、噫、怨念《おんねん》のはらからよ。
[#ここで字下げ終わり]
[#改ページ]

   梟《ふくろふ》       シャルル・ボドレエル

[#ここから
前へ 次へ
全9ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
上田 敏 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング