海潮音
上田敏訳詩集
上田敏訳

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)伊太利亜《イタリア》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)彫心|鏤骨《るこつ》

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(例)※[#「厭/(餮−殄)」、第4水準2−92−73]

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遙に満洲なる森鴎外氏に此の書を献ず
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大寺の香の煙はほそくとも、空にのぼりて
あまぐもとなる、あまぐもとなる。
               獅子舞歌
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  海潮音 序

 巻中収むる処の詩五十七章、詩家二十九人、伊太利亜《イタリア》に三人、英吉利《イギリス》に四人、独逸《ドイツ》に七人、プロヴァンスに一人、而《しか》して仏蘭西《フランス》には十四人の多きに達し、曩《さき》の高踏派と今の象徴派とに属する者その大部を占む。
 高踏派の壮麗体を訳すに当りて、多く所謂《いはゆる》七五調を基としたる詩形を用ゐ、象徴派の幽婉《ゆうえん》体を翻《ほん》するに多少の変格を敢《あへ》てしたるは、その各《おのおの》の原調に適合せしめむが為《ため》なり。
 詩に象徴を用ゐること、必らずしも近代の創意にあらず、これ或は山岳と共に旧《ふる》きものならむ。然れどもこれを作詩の中心とし本義として故《ことさ》らに標榜《ひようぼう》する処あるは、蓋《けだ》し二十年来の仏蘭西新詩を以て嚆矢《こうし》とす。近代の仏詩は高踏派の名篇に於《おい》て発展の極に達し、彫心|鏤骨《るこつ》の技巧実に燦爛《さんらん》の美を恣《ほしいまま》にす、今ここに一転機を生ぜずむばあらざるなり。マラルメ、ヴェルレエヌの名家これに観る処ありて、清新の機運を促成し、終《つひ》に象徴を唱へ、自由詩形を説けり。訳者は今の日本詩壇に対《むかひ》て、専《もつぱ》らこれに則《のつと》れと云ふ者にあらず、素性の然らしむる処か、訳者の同情は寧《むし》ろ高踏派の上に在り、はたまたダンヌンチオ、オオバネルの詩に注げり。然れども又|徒《いたづ》らに晦渋《かいじゆう》と奇怪とを以て象徴派を攻むる者に同ぜず。幽婉|奇聳《きしよう》の新声、今人胸奥の絃に触るるにあらずや。坦々たる古道の尽くるあたり、荊棘《けいきよく》路を塞《ふさ》ぎたる原野に対《むかひ》て、これが開拓を勤むる勇猛の徒を貶《けな》す者は怯《きよう》に非《あ》らずむば惰なり。
 訳者|嘗《かつ》て十年の昔、白耳義《ベルギー》文学を紹介し、稍《やや》後れて、仏蘭西詩壇の新声、特にヴェルレエヌ、ヴェルハアレン、ロオデンバッハ、マラルメの事を説きし時、如上《うへのごとき》文人の作なほ未《いま》だ西欧の評壇に於ても今日の声誉《せいよ》を博する事|能《あた》はざりしが、爾来《じらい》世運の転移と共に清新の詩文を解する者、漸《やうや》く数を増し勢を加へ、マアテルリンクの如きは、全欧思想界の一方に覇《は》を称するに至れり。人心観想の黙移実に驚くべきかな。近体新声の耳目に嫺《なら》はざるを以て、倉皇視聴を掩《おほ》はむとする人々よ、詩天の星の宿は徙《のぼ》りぬ、心せよ。
 日本詩壇に於ける象徴詩の伝来、日なほ浅く、作未だ多からざるに当て、既《すで》に早く評壇の一隅に囁々《しようしよう》の語を為《な》す者ありと聞く。象徴派の詩人を目して徒らに神経の鋭きに傲《おご》る者なりと非議する評家よ、卿等《けいら》の神経こそ寧ろ過敏の徴候を呈したらずや。未だ新声の美を味ひ功を収めざるに先《さきだ》ちて、早くその弊竇《へいとう》に戦慄《せんりつ》するものは誰ぞ。
 欧洲の評壇また今に保守の論を唱ふる者無きにあらず。仏蘭西のブリュンチエル等の如きこれなり。訳者は芸術に対する態度と趣味とに於て、この偏想家と頗《すこぶ》る説を異にしたれば、その云ふ処に一々首肯する能はざれど、仏蘭西詩壇一部の極端派を制馭《せいぎよ》する消極の評論としては、稍《やや》耳を傾く可《べ》きもの無しとせざるなり。而してヤスナヤ・ポリヤナの老伯が近代文明|呪詛《じゆそ》の声として、その一端をかの「芸術論」に露《あらは》したるに至りては、全く賛同の意を呈する能はざるなり。トルストイ伯の人格は訳者の欽仰措《きんぎようお》かざる者なりと雖《いへど》も、その人生観に就ては、根本に於て既に訳者と見を異にす。抑《そもそ》も伯が芸術論はかの世界観の一片に過ぎず。近代新声の評隲《ひようしつ》に就て、非常なる見解の相違ある素《もと》より怪む可きにあらず。日本の評家等が僅に「芸術論」の一部を抽読《ちゆうどく》して、象徴派の貶斥《へんせき》に一大声援を得たる如き心地あるは、毫《
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