霧だつ闇夜の空の寺の鐘、きゝつゝあれば、
過ぎし日のそこはかとなき物思ひやをら浮びぬ。
喉太《のどぶと》の古鐘《ふるがね》きけば、その身こそうらやましけれ。
老《おい》らくの齢《とし》にもめげず、健《すこ》やかに、忠《まめ》なる声の、
何時《いつ》もいつも、梵音妙《ぼんのんたへ》に深くして、穏《おほ》どかなるは、
陣営の歩哨《ほしよう》にたてる老兵の姿に似たり。
そも、われは心破れぬ。鬱憂のすさびごこちに、
寒空《さむぞら》の夜《よる》に響けと、いとせめて、鳴りよそふとも、
覚束《おぼつか》な、音《ね》にこそたてれ、弱声《よわごゑ》の細音《ほそね》も哀れ、
哀れなる臨終《いまは》の声《こゑ》は、血の波の湖の岸、
小山なす屍《かばね》の下《もと》に、身動《みじろぎ》もえならで死《う》する、
棄てられし負傷《ておひ》の兵の息絶ゆる終《つひ》の呻吟《うめき》か。
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人と海 シャルル・ボドレエル
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こゝろ自由《まま》なる人間は、とはに賞《め》づらむ大海を。
海こそ人の鏡なれ。灘《なだ》の大波《おほなみ》はてしなく、
水や天《そら》なるゆらゆらは、うつし心の姿にて、
底ひも知らぬ深海《ふかうみ》の潮の苦味《にがみ》も世といづれ。
さればぞ人は身を映《うつ》す鏡の胸に飛び入《い》りて、
眼《まなこ》に抱き腕にいだき、またある時は村肝《むらぎも》の
心もともに、はためきて、潮騒《しほざゐ》高く湧くならむ、
寄せてはかへす波の音《おと》の、物狂ほしき歎息《なげかひ》に。
海も爾《いまし》もひとしなみ、不思議をつゝむ陰なりや。
人よ、爾《いまし》が心中《しんちゆう》の深淵|探《さぐ》りしものやある。
海よ、爾《いまし》が水底《みなぞこ》の富を数へしものやある。
かくも妬《ねた》げに秘事《ひめごと》のさはにもあるか、海と人。
かくて劫初《ごうしよ》の昔より、かくて無数の歳月を、
慈悲悔恨の弛《ゆるみ》無く、修羅《しゆら》の戦酣《たたかひたけなは》に、
げにも非命と殺戮《さつりく》と、なじかは、さまで好《この》もしき、
噫《ああ》、永遠のすまうどよ、噫、怨念《おんねん》のはらからよ。
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梟《ふくろふ》 シャルル・ボドレエル
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