されど涙《なんだ》や笑声《しようせい》の惑《まどひ》を脱し、万象《ばんしよう》の
流転《るてん》の相《そう》を忘《ぼう》ぜむと、心の渇《かわき》いと切《せち》に、
現身《うつそみ》の世を赦《ゆる》しえず、はた咀《のろ》ひえぬ観念の
眼《まなこ》放ちて、幽遠の大歓楽を念じなば、

来れ、此地の天日《てんじつ》にこよなき法《のり》の言葉あり、
親み難き炎上《えんじよう》の無間《むげん》に沈め、なが思、
かくての後は、濁世の都をさして行くもよし、
物の七《なな》たび涅槃《ニルヴアナ》に浸りて澄みし心もて。
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   大饑餓     ルコント・ドゥ・リイル

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夢|円《まどか》なる滄溟《わだのはら》、濤《なみ》の巻曲《うねり》の揺蕩《たゆたひ》に
夜天《やてん》の星の影見えて、小島《をじま》の群と輝きぬ。
紫摩黄金《しまおうごん》の良夜《あたらよ》は、寂寞《じやくまく》としてまた幽に
奇《く》しき畏《おそれ》の満ちわたる海と空との原の上。

無辺の天や無量海、底《そこ》ひも知らぬ深淵《しんえん》は
憂愁の国、寂光土、また譬《たと》ふべし、※[#「火+玄」、第3水準1−87−39]耀郷《げんようきよう》。
墳塋《おくつき》にして、はた伽藍《がらん》、赫灼《かくやく》として幽遠の
大荒原《だいこうげん》の縦横《たてよこ》を、あら、万眼《まんがん》の魚鱗《うろくづ》や。

青空《せいくう》かくも荘厳に、大水《だいすい》更に神寂《かみさ》びて
大光明の遍照《へんじよう》に、宏大無辺界中《こうだいむへんかいちゆう》に、
うつらうつらの夢枕、煩悩界《ぼんのうかい》の諸苦患《しよくげん》も、
こゝに通はぬその夢の限も知らず大いなる。

かゝりし程に、粗膚《あらはだ》の蓬起皮《ふくだみがは》のしなやかに
飢《うゑ》にや狂ふ、おどろしき深海底《ふかうみぞこ》のわたり魚《うを》、
あふさきるさの徘徊《もとほり》に、身の鬱憂を紛れむと、
南蛮鉄《なんばんてつ》の腮《あぎと》をぞ、くわつとばかりに開いたる。

素《もと》より無辺天空を仰ぐにはあらぬ魚の身の、
参《からすき》の宿《しゆく》、みつ星《ぼし》や、三角星《さんかくせい》や天蝎宮《てんかつきゆう》、
無限に曳《ひ》ける光芒《こうぼう》のゆくてに思馳《おもひは》するなく、
北斗
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