とつて居られたが、お貞さんは其師風を最もよく呑みこみ同じ信念のもとに師のあとを進まれた。明治四十二年二月の文章世界は投書家の優秀な者に新作を掲載させた。お貞さんの其時の作は「徒勞」といふもので田山花袋氏の激賞を受け、一般文壇的にも此作によつてお貞さんの名は女流作家として自他ともに許すやうになつた。
實姉の異状姙娠の分娩の有樣を克明に描寫したものであつた。
明治四十三年五月の作「四十餘日」の前驅をなす作といつて差支へない、同じ系統のものといつてよいと思ふ作は大正元年九月發表の「女醫の話」であらう。女と姙娠の問題を深刻に大膽に觀察描寫した作と言つてよかつた。それは即ちお貞さんの心にある女としての重大な問題であつた。其事はお貞さんと交際のあつた人はよく知つてゐる。別に異状な、さういふ點で祕密めかしい事がお貞さんにあつたといふのではない。お貞さんは生れつき眞面目な婦人であり思想も信念もきはめて堅實な人であつた。女として姙娠といふ特別な約束に結ばれる自然の現象に對して、怒つてよいか、憐んでよいか、笑つてよいか、泣いてよいか解らぬといふやうに考へて、もしかすると其いづれもであつたかもしれない心
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