根本松江氏もお初ちやんも何か書いてゐる。それで私たちはすぐ其雜誌へ投書をはじめた。服部氏たちとは再び手紙の往復が始められるやうになつた。時代は明治三十年代の終りから四十年に進んでゐた。投書雜誌の常として一年二年と經過するうちに始終すぐれた誰それといふ人が出來がちなもので、女子文壇でも創作欄はお貞さんの時代ともいふべきものがあり、詩壇では私が時代をつくつてゐた。若山喜志子さん、長曾我部菊子さんなど、各時代をつくつた人々であつた。
時代をつくるやうになると本人はいつ出しても相當の成績ををさめるし新鮮な興味を失つてくる。そこでお貞さんは巧に躍進していつの間にか女子文壇を去り博文館の文章世界の投書家となつてしまつた。そこでも忽ち群をぬいて投書家の中で優秀組、今の東寳社長秦豊吉氏だの川浪道三氏だのといふ人々と新進若手として時には本流文壇の人々の批評にものぼるやうな進歩のあとを見せてゐた。文章世界の編輯主任に田山花袋氏が居た。花袋氏は人も知る其當時我國文壇の浪漫的幻夢的のものの行き方といさぎよく分れて、あくまで現實的に現實のままを客觀描寫風に太くたくましく押し進むといふ信念をも述べられ其行き方を
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