水野仙子さんの思ひ出
今井邦子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)お粂《くめ》ちやん

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 水野仙子さんに就いて筆を執るのは實に廿五年ぶりくらゐな事であらうか。今紙を前にひろげて一種の感慨なきを得ない。私は曾て大正七、八年の頃に、三宅やす子さんの發行して居られたウーマンカレントといふ小さい雜誌に、自分と仙子さんとの交渉を、可成り正直に心からの聲を出して書いた事があつた。それ以來此度久しぶりで仙子さんに就いて書くのである。それは我社の企てであつた女流作家研究のうちで、明治時代の女流作家として、仙子さんを一枚どうしても加へたい念願があつて、それを自分の受持にしたのである。私は作家ではないから、特に仙子さんの作品に觸れて評する事はむづかしいが、青梧堂といふ書店から發行された塩田良平氏の「明治女流作家」といふ書物のなかにある「水野仙子」といふ項目のなかに、よく委しく其作にも觸れて書かれてある。
 水野仙子集は仙子女史が此世に殘した唯一の作品集である。其仙子集のなかにある有島武郎氏の筆になる「水野仙子氏の作品について」といふところを讀んでみるとかういふ所がある。
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「仙子氏の藝術生活には凡そ三つの内容があつたやうに思はれる。第一に於て、彼の女は自分の實生活を核心にして、その周圍を實着に――年若き女性の殉情的傾向なしにではなく――描寫した。そしてそこには當時文壇の主潮であつた自然主義の示唆が裕かに窺はれる。第二に於て、作者は成るべく自己の生活をバツク・グラウンドに追ひやつて、世相を輕い熱度を以て取扱つて、そこに作家の哲學をほのめかさうとしたやうに見える。第三に至つて、作者は再び嚴密に自己に立還つて來た。而して正しい客觀的視角を用ゐて、自己を通しての人の心の働きを的確に表現しようと試みてゐる。」
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と書いてゐるが、全く其通りであると私は痛切に感心して此批評を讀んだ。
 水野仙子氏は私たちはお貞さんの通稱で呼びなれてゐたから、以下私はやはり其名で書いて行き度いと思ふ。それは水野仙子といふのは筆名であつて、本名は服部貞子といふのであつた。水仙の花を好む所から水の仙と書いたのがだんだん本名のやうになり、つひに水野仙子と自分
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